ぼくが見たサンクトペテルブルク 第9章 『グッバイ、レニングラード』

魔法が解けるまでわずか2時間。
ホテルにMs.Alexが迎えに来るのが正午。最後の目的地であり、この旅で必ず行こうと思っていた「レニングラード包囲と防衛博物館」の開館が10時。
しかし博物館入口と書かれたドアはまだ9時30分なのに開け放されていて、中を覗くと剥き出しのコンクリートと諸々の建材が無造作に置かれていた。工事中。次。

「レニングラード包囲戦」については少しだけ。
サンクトペテルブルクは何度も名前が変わる都市で、第2次大戦時には「レニングラード」という名を冠していた。独ソ戦ではドイツ軍の包囲により多くの犠牲者が出た。その数は包囲された900日で67万〜100万人に登ると言われる。かなり幅のある数字だが、死体が、積み上げられた高さで数えられるような状態だったそうだから、正確な数字などわかるまい。参考までに、沖縄戦の犠牲者が25万人、広島原爆が16万人、長崎原爆が7万人、東京大空襲が8万人と言われる。

注目すべきはその死因で、死因の大半が餓死、もしくは凍死である。食料供給が断たれ、土までも食されるようになった。焼け落ちた食料庫の下にあった土が、比較的高値で売られたという。
驚くべきは、そんな絶望的な状況下の1942年3月、地元出身の作曲家ショスタコーヴィチが作曲した『交響曲第7番 レニングラード』が初演を迎えたこと、それを聴くために市民がホールに並んだということだ。市民の忍耐力と芸術への愛が伝わるエピソードだ。

目的地変更。ロシア国立図書館に寄り道して現在10時30分前。ラストチャンス。
ドストエフスキーの墓参りに行こう。即断即決、電光石火。

ドストエフスキーの墓はアレクサンドル・ネフスキー大修道院の敷地内にある。と予習していた。『地球の歩き方』で。
しかし修道院内を歩いても歩いても、それは見当たらない。雪で不安定な足元の中、細長く広がり墓地を駆け回る。いま思うと大変罰当たりなことをした。
時刻は11時20分を回っていた。もう帰らなければならない。諦めて、修道院全体的に向かって十字を切った。
ありがとう、ドストエフスキー。あなたに導かれてこの街に来て、体験したこと、考えたこと。感じたことの一斎をぼくは忘れない。

修道院を出て、駅へと抜ける小道を走る。すると、小道の両脇に墓の入口があり、その入口の横には宝くじ売り場のようなチケットセンターが。絶対これだ!修道院の中じゃないじゃん!最後の最後まで、おそロシア。

息を切らしながら、ぎこちなく十字を切った。十字は形だけだが、謝意は深い。ありがとう、文学博物館、行けなくてごめんね。

12時。魔法が解けた。それと同時に到着した。案の定、Ms.Alexは10分後に現れた。君たちロシア人のそういうところ、愛してるぜ。

Ms.Alexの運転は相変わらず荒ぶっていた。ある意味期待通りで安心した。
後部座席のシートベルト?つけようとも思わなかった。ちょっと図太くなったかな?

後悔は喜びより強い思い出を作る。

ジョージアワインを飲めなかったのも、行きたかった博物館に行けなかったのも、きっと旅特有の味わいに変わると信じている。
空港の入口から街のほうを眺め、この街に来る一番の契機となった本のタイトルを借りて、
「『グッバイ、レニングラード』」。
胸の中でこっそり呟いた。

天気は曇り。
飛行機は予定通り出発する。
時差+6時間の未来に向かって。

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