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九月十二日

夢の内容

 昨晩の夢はぼんやりとしか憶えていない。実家付近にいたということは確かだ。福島県のド田舎の実家付近にいたのだが、何故か東京の家も近くにあるという状況で、私はどちらに帰ろうかなと迷っていた。歩いている道は懐かしい農道であった。田んぼの横にある、たくさんのイナゴの飛び跳ねている、草の伸びっぱなしの農道。
 前から一人の女性が愛犬のアフガン・ハウンドを連れて散歩してくるのが見えた。「こんばんは」と挨拶をする。小さい頃、高圧的な作り笑顔がとても苦手だった、英語塾の先生だった。地声からオクターブ高い声で彼女は長々と挨拶をする、「久しぶりねぇ、ここで会えて良かったわ、お子さんも賢そうに育って」。耳がキンキンするなぁと思いながらその場をやり過ごす。犬は相変わらず毛並みが綺麗で、極めて大人しくおすわりをしてその場所に待っていた。
 歩きながら私は自然と自宅ではなく実家への道を選んでいた。意図的にその道を選んだのではない。あまりに歩き慣れた道だったから、無意識にその道を選んでしまっただけだ。無意識に歩き無意識に家に着き、ガラガラと玄関の扉を開けた。その先はぼんやりとした記憶しかない。

自己解釈

 私は何度か近場で引っ越しをしている。あまりに近場なので、今でもたまに最寄駅から前に住んでいた家の方に帰りそうになる。夢では、二百キロくらい離れた実家と自宅でそのような現象が起こった。夢の中だから何が起こってもおかしくはないが、やはり変な気持ちではあった。「まだ私の実家はこちらなのか」とうんざりともした。実家が実家でなくなる日はいつ来るんだろうか。
 道の途中で会った塾の先生は自分の一番苦手なタイプの女性だ。高圧的で、プライドが高く、存在そのものを知識と化粧で覆っている。あまり素顔の見えない人だ。社交辞令は昔から苦手である。社会不適合者に相応しく、社交辞令だけで成り立っている人とは仲良くなれない性質である。いつも彼女の側にいた丁寧にブラッシングをされた犬が私にはどこか不憫に見えた。鋭敏な聴覚でこのキンキン声を毎日聞かされているのか、と、思うと。勿論そんな気持ちは、獣の気持ちを傲慢にも自分の気持ちに置き換えて抱いた勝手な憐憫であり、エゴの塊である。犬に言葉はなく、彼女の素顔がどんな人間であろうと従う他ない。その美しい犬は現実では五年ほどで天に召された。ペットロスに浸る先生を気の毒に思ったが、「犬は精一杯生きていただろうな」と残酷なことを思う自分がいたこともまた確かである。

万人にお勧めはできないけど、貴重な本

男の行動学 / 齊藤 令介(集英社文庫)

女親に男の子を教育させることは難しい。なぜならば、彼女たちは本能的に子供たちをかばおうとするからだ。
たとえば川。大多数の女親は、息子たちに「危険だから、川のそばに行ってはいけません」と教えこむ。これはこれで正しい。息子が事故に遭う確率が激減するから。
しかし、危険から故意に遠ざけられた男の子は、事故には遭わずにすむかもしれないが、自己の確立を妨害される。男の子が一人前の男になるためには、母親の保護本能を乗り越えなければならないのである。

 冒頭のこの文章だけで、現代では決して発行できない書籍であることは間違いないと言えるだろう。ドン引きした方もいると思う。しかしこんな文章は序の口で、読み進めていくとこれでもかという位パワーワードが溢れている。具体的に言うと”機能美を持つ服、それが男のウェアであるべきだ。”といった言葉だ。「何が男じゃ、自由にさせろ」という気持ちは私にもある。その一方で、著者の言葉はどれも潔く、子どもをぬるま湯に浸からせるのではない、厳しい愛に溢れている。私はそれを”懐かしい愛”だなと思った。今はもうほぼ失われた厳しい愛の在り方だ。

 私は親として常々、ジェンダーレス化の進む社会の波に乗り、”母親”としての役割と、”父親”としての役割を、ニュートラルに使い分けることができる存在になりたいと思っている。でも、どうしても足りない部分がある…夫はサバイバル能力に長け、私はサバイバル能力には欠けるが、保護本能に満ちているという風に。ジェンダー云々、表面的な判断では無く、本来備わった”性分”というものにきちんと向き合って役割分担をしないとな、と、読むたびに思わされる一冊です。


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