見出し画像

落ち込んだときの答え探し

───ああ、多分これはひとしきり泣かないと立ち直れないやつだ。
大好きなディズニーソングを聴きながら歩いていた僕に、ぽつりと雨粒が落ちるように答えが落ちてきた。



4月の終わりから、先週にかけて久しぶりにみっちり働いた。いや、それ以前もまじめに働いてはいたのだけれど、「とても忙しい」という感覚が2か月以上続くのは、昨年頭に前職場から逃げ出して以来久しぶりのことでした。
副業で月に何本か(5,6月はそれぞれ7本だった)書かせてもらっているコラムを落とさずにちゃんと納品も出来ていることを考えると、なかなか頑張ったんじゃないかと自分を褒めてやりたくなる。
そんな二か月と少しの期間もひと月を過ぎたあたりから、通っている美容室の担当に「元気がない」と言われ、自分でもあまり調子がいいとはいえない状況だった。婦人科系の疾患があり薬で治療している方にも影響が出たことも結構なショックで。改めて、僕は「無理は禁物」な身体だったのだと思い知らされた。

調子が悪い、要は気分が落ち込んだ時に良いとされる“ご自愛”。
美味しいものを食べたり、いつもより多めに寝たり、お風呂に使ったりと暮らしの中のグレードを上げるものや、
推しの映像を観たり、趣味に没頭したり、身体を思い切り動かすなんて発散をする人もいてきっと人の分だけ“ご自愛”があるんだと思う。
その中でも今回の落ち込みでは、映画や音楽で涙を流すことが有効な気がする、と通勤中に大好きなディズニー音楽を聴きながらふと思った。

「休みの日にでも泣けるようにしておこう」なんて泣く予定を入れるのはポジティブなのかネガティブなのか。
人によっては「そもそもで、そんなこと急に思う?」と感じるかもしれません。その理由に答えるならば、「ずっと考え続けているから」だと思う。
大抵のことは四六時中頭の端っこで考え続けていれば、思いがけない時にふと答えが降ってくる。小説を書き続けている人や音楽を作り続けている人が、ふいに自分でも驚くような「これ、いいじゃん!」という展開やメロディーをひらめいたりするみたいに。自分の気持ちにずうっと向き合って、今何に不満を抱えていて、何に怒っているのか。もしくはショックを受けていたり、悲しんでいるのかと落ち込んだ理由とその奥にある原因を考えていくと、「僕は今こういう理由で落ち込んでいる」のだと言葉にすることが出来る。それが分かると向き合い方のヒントになったり、先ほどのようにどうやったら気が晴れるのか、ヒントや答えの方から勝手にやってきたりする。

人によってはこれを友人や家族との対話の中で自然とやっているでしょう。
僕が落ち込んでいると彼女も心配するから、話しながら「僕はきっとこういう理由で落ち込んでいる。」と彼女が心配しないように感情に関する答えを共有したりします。
だけど本当に信頼しているパートナーのような間柄でない限りは、対話での答え探しは友人や知人を勝手にカウンセラーにしてしまうことにもなってしまうから、注意が必要だとも思う。本来はパートナーに対してでも、一旦は自分のことなのだから自分で考えてみた方がいい。自分で自分のカウンセラーを買って出た方が健全なように感じます。

今回はディズニーソングを聴きながら「泣いた方が良い」と思ったことだしせっかくだからディズニーの映像で泣こう、と思い休日にベッドルームに買ったばかりのプロジェクターを設置。暗くしたベッドルームは冷房でひんやりとしていて、棚も兼ねたヘッドボードから対面の壁に映像が投影される。同じくヘッドボードにドリンクを用意すれば、即席の小さな映画館の出来上がり。
ベッドでリラックスして、大画面で観る東京ディズニーランドやディズニーシーのショープログラム。自分の泣くツボもそれなりにわかっているのでそのツボにあったショーをセレクトして、じっくり鑑賞しました。

ディズニーのショーやパレードで僕が涙を流してしまう大きな理由のひとつは、ショーやパレードだけでなくパーク全体にも散りばめられた「多幸感」。多幸感はティンカーベルの黄金色の粉のように、ショーやアトラクション、キャラクターやフード、グッズ、そして音楽とパーク内の至るところに振りかけられ、きらきらと輝いている。その輝きは目に見えるほどの大きな粒子ではないけれど、確実な幸福の光を放っていて。それを強く感じ取ると、僕は涙せずにはいられなくなってしまう。

自分でお膳立てをして泣くという行為は自分の手によって「作られた感動」と言ってもいいと思う。しかし作為的に作られたものでも、涙を流すこと自体にデトックス作用を感じているのならば有益な行為だと思う。
実際、涙と一緒に溜まってしまった心の老廃物が解けて流れていくのを感じた。一回の涙で流れ出きることこそなかったものの、ある程度すっきり出来た。「これをすれば心が軽くなるだろう」と考えて自分で対処するだけでも、何もしないで落ち込んだままでいるよりは個人的にはずいぶん気持ちも楽になった気がしています。僕にとっては「自分で対処出来たこと」が何よりの安心材料になるのかもしれません。

自分の状況とか感じていることに向き合い続けることは本当にツラいし、そうせずとも生きられたらそれが一番いいと思う。
だけど一定数、僕と同じように考え続けてふいに現れる答えやヒントを求めるようなタイプもいることも知っている。
その場合、苦しいけれど考え続けることもある意味ご自愛の範疇になり得るのかもしれないと、考え続ける僕は思う。



✎__________
記事に共感、気に入ってもらえたら
「スキ」していただけると嬉しいです!
note未登録の方も押せますのでぜひ。
__________

₍ᐢꙬᐢ₎サポートいただけたらめちゃくちゃモチベーションが上がります! 良ければ一緒になにか面白いこととか出来たらうれしいです。