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有島武郎(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録12)

はじめに

「膨張する本の記録」では、おおよそ1970年頃から1980年頃にかけて読んだ小説のうち、記憶にあるものを羅列し、簡単な感想を記そうと思った。
まず、記憶にあるものの羅列は、以下の本の中で、既にしてあった。

その後、各作品ごとに、刊行年、作品内における主要な時代(時間)及び舞台(空間)の記述を行い、表を作成した。これは、以下の本の中の英語の論文の付録として付けたので、英語も併記した。

そして今回、各作品ごとに、上述のように、簡単な感想を記しておこうと思った。
その作業を始めるうちに、一つ一つが小エッセイのようになってしまった。それはそれで良いが、しかしそのペースだと、全部記述するのに、ひどく時間がかかってしまう。
そこで、方針を改め、多くの場合作家ごとに記述の一つの単位とし、気になったテーマを直観的に設定し、テーマごとにごく簡単な感想を記して行くことにする。
この作業を行っていくと、結果として、考慮するべきテーマの一覧・リストが出来上がるのではないか。つまりこの一覧は、物語の生成にとって考慮するべき、物語の技法に関連するリストとなっている可能性がある。
それを期待している。
以下の有島武郎については、既に『生れ出づる悩み』についての雑文を書いたが、以下は、昔読んだその他の作品を含めたリストであり、それらに共通する特徴を、感想として記す。

作者と作品

有島武郎 [Arishima Takeo]

生れ出づる悩み [Umareizuru Nayami: The Agony of Coming into the World]
刊行:1918
時代:明治時代 [The Meiji era]
舞台:岩内 [Iwanai]、札幌 [Sapporo] (北海道 [Hokkaido]、日本 [Japan])

カインの末裔 [Cain no Matsuei: The Descendants of Cain]
刊行:1918
時代:The Meiji era
舞台:Matsukawa farm (Hokkaido, Japan)

小さき者へ [Chiisaki Mono He]
刊行:1918
時代:Taishō 6 (1917)
舞台:Tokyo

或る女 [Aru On’na: A Certain Woman]
刊行:1919
時代:The Meiji era
舞台:Yokohama, Japan, A ship bound for USA, Seattle, USA

文章

有島武郎は、白樺派という文学流派の一員に数えられることがある。
白樺派の有名な作家は、志賀直哉や武者小路実篤であり、有島武郎も含めて、多くが金持ちの息子達であった。
私にとって、志賀直哉や武者小路実篤の作品は、面白くないものではなかった。
特に志賀の作品には、常識的で日常的な期待や論理を、いわば逆撫でするようなところがあり、文学として面白いものがあるが、しかし私にとっては、後味が悪かった。
有名な『暗夜行路』も主人公も、暴力傾向のある偽善者のように思え、何が「小説の神様」なのか、全く不思議だった。自分のような者には、全く縁のない作家であり、人間である、というのが、正直な感想である。

勿論、有島も、まだ階級というものが残っていた当時の日本において、相当の特権階級の出身であり、志賀らと同様、庶民とは関係のない人種であったに違いない。

志賀直哉と武者小路実篤の文章は全く異なるが、しかし比較的軽快な文章であるという点では、共通している。
それらに対して、有島の文章は、重い。「重厚」である。何重にも塗り重ねられた「油絵」を思わせる。
その文章は、(日本語の意味における)エッセイ的な文章よりも、哲学書や思想書に向いているように思える。
実際、有島は、『惜しみなく愛は奪う』という、哲学的な本を書いている。私は同じ頃、これを読み始めたが、読み通すことは出来なかった。

有島の文章は、いわば小回りが利かない。だから、日常生活の細部を、精細に表現するようなことには、向かない。
その代わり、物語的結構、物語的枠組みを持った出来事を、ぐいぐいと押し詰めて行くようなことに、向いている。
その意味で、それは「本格的な小説/物語」にこそ相応しい、文章である。
理詰めな文章であり、論理的展開に向いた、文章である。

人称

たまたまなのか定かではないが、上記の四編の小説のうち、『生れ出づる悩み』と『小さき者へ』の二つが、二人称を主体としている。あとの二つは、三人称小説である。
二人称を主体とする小説は、一人称や三人称の小説よりも、明らかに数が少ない。
川端康成の「抒情歌」がそうであったと記憶する(確認していない)。

小説における二人称の特徴とは、何であろうか?
一人称小説では、多くの場合、一人称の登場人物は、人称主体である自身の心理状態や、気持ちを把握している。すなわち、その内的状態を把握している人物によって、物語が展開する。
無論、理論的には、人称と内容的状態の把握とは、異なるレベルにある、二つの要素である。
小説においては、例えば、物語が一人称で進むにも拘わらず、その人物の内的状態が全く表現されないこともあり得る。あるいは、そのような複雑な技法の使用は、十分に可能である。
しかし多くの場合、一人称の人物によって進展する物語において、その人物は、自身の内的状態を、把握し、物語の受け手に向けて、それを表白する。
一方、三人称小説において、すべての登場人物の内的状態が表現されなかったり、特定の人物のそれが表現されなかったりすることはあるが、多くの場合、三人称で表出される登場人物の内的状態は、読者に対して提示される。

これらに対して二人称小説では、基本的に、主人物として二人称で語られる登場人物の内的状態は、語られないか、あるいは明示的な推測を通じてのみ、語られる。
つまり、二人称の登場人物の場合、小説の展開において、内的状態が語られない、表出されない、ということが、その特徴となるのである。
何でもありの小説のこと故、二人称の登場人物の内面が、平然と表出される、ということが起こっても良いが、その場合、読者は、あり得ないことが起こっているという、違和感を覚えるであろう。
登場人物の内面、内的状態が表現されても、差し支えないが、読者が違和感を覚えるに違いない、という点が、二人称小説の特徴である、と考えることが出来る。

有島の『生れ出づる悩み』では、画家と漁師との兼業の生活の中で悩む、二人称で描かれた主人公の内面に、徐々に語り手の筆は及ぶが、この場合脇役に過ぎない一人称の語り手たる「私」は、その描写があくまで推測であることについて、聞き手に向けた断りの文句を挿入している。こうしないと、常識によって見た時の不自然さを免れることは出来ない。

物語の技法との関わりで考えると、登場人物の内面、内的状態、心理状態等を、語り手が分からないままに、物語を展開したい場合、敢えて二人称とすることが、有効である可能性がある。

なお、「小さき者へ」において、作者と重なり合う語り手によって呼びかけられている子供の一人は、後年俳優となり、黒澤明の『羅生門』や溝口健二の『雨月物語』等、日本映画全盛期の傑作群を、中心的存在として支えた。森雅之である。

1960年代から70年代初めまでのテレビドラマにも多数出演していた記録があるので、私も子供の頃、知らないで見ていたに違いない。
芸術家としての比較においては、父親と並ぶ、あるいはもしかしたら、父親を凌ぐ程の業績を上げた、大俳優であった。

舞台(物語空間)

上記森雅之は、数年で東京に転居したが、生まれは札幌の白石である。
有島武郎は、東京で生まれ、横浜の学校に通うなどしていたが、どうしてか、農学者を目指して札幌農学校に進学し、その後アメリカに留学しハーバード大学等で学んだ。帰国後の拠点も北海道であり、ニセコに農場を作り、それを農民に開放する等のことをした。
そのため、有島の作品の舞台として、北海道が選ばれることが多い。その典型が『生れ出づる悩み』や『カインの末裔』であるが、未完に終わった晩年の小説『星座』の舞台も札幌である。
また、唯一の完成した長編小説である『或る女』の舞台は、横浜、そしてそこからアメリカへの船の中、そしてアメリカのシアトル等である。これも、有島自身が実際に行った土地や空間の舞台化である。
有島の小説は、所謂私小説ではなく、もっと虚構性が強いものの印象があるが、北海道と言いアメリカと言い船中と言い、実体験を経た舞台空間が以外に多いことにも気付く。
私小説性と虚構小説性との絶妙な狭間に、その小説と物語が成立していることが分かる。

作家と死

有島武郎の小説を私が読んだのは、中学校に入ったばかりの頃で、上に記載した小説の他、「一房の葡萄」等をまとめて読んだが、その頃まとめて読んだ作家で好きだったもう一人がアーネスト・ヘミングウェイだった。
それに、その数年前から少しずつ読み始め、その後まとめて読むことになる、川端康成と三島由紀夫を含め、この四人の作家を、私は最も好きな作家として、その当時、認識していた。
これらの作家に共通するのは、全員が自殺した、という点である。

有島武郎は、最初の妻―森雅之の母―に死に別れた後は独身であったが、人妻の編集者と恋仲となり、結局二人して軽井沢の別荘で首を吊って死んだ。
残っている有島の顔写真からは、その端正な風貌が伺われる。妻安子も、残っている写真から、大変美しい人であったことが分かり、それが息子に受け継がれたのだろう。
しかし、『カインの末裔』や『或る女』のような、激しい物語を書いてしまう作家、また他の白樺派作家とは全く異なる、重厚な油彩画のような文体を持った作家であるだけに、内面には、激しい、論理では制御出来ないような、情熱が燃えていたのだろう。

ヘミングウェイは、ノーベル賞を受賞するなど栄光に包まれた生活を送っていたが、同時に、高齢者の域に入ると、肉体的・精神的不調に悩まされるようになった。三島のように、四十代で死ぬことを選ばなかった以上、当然のことでもあるだろう。普通の人間は、そこで折り合いを付けながら、高度を下げて、生き続けて行く。
しかし、ヘミングウェイのような、行動と文筆とが車の両輪となっているような作家の場合、どちらかが不調になると、バランスが崩れて、思い通りの結果を残すことが出来なくなる。
『誰がために鐘は鳴る』や『老人と海』を書いた後も、ヘミングウェイは幾つかの長編小説を書いていたが―『海流の中の島々』、『エデンの園』等―、生前、それらを完成させることは出来なかった。

逆に言えば、どんなに有名になろうが、ノーベル賞を受賞しようが、満足していなかった、ということでもある。

今更言うまでもないが、三島由紀夫の死については、日本のみならず世界で、無数の人々が、無数のことを言っている。一人一説、と言っても過言ではない。
三島の死の原因は何か? といった問いは、結局文脈によって変化する解釈であり、解釈に過ぎないと思えば、やめればいいし、そうでないと思えば、屋上の上にさらにそれぞれの何かを建て増せば良い。
無限の物語生成装置をこの世に残した、という意味でも、全く三島は、イヤになる程に、才能に溢れていた、という訳だ。
死に際して、三島が表向き訴えていた憲法改正も、自衛隊の正式な国軍化も、53年経ってまだ実現していない、という事実は、三島の予想が大きく外れていたのか、それとも三島の問題が未だ解消されない程、日本という国が停滞していたのか。
しかしこれが事実である以上、三島について、人々が語るのをやめないのは、当然のことでもあろう。
今後、三島由紀夫について、人々が語るのをやめ、その作品群が純粋な古典となる時は、やって来るのだろうか?
その時、一体日本は、どうなっているのだろうか?
三島由紀夫は、自分の死後、極東に、一つの個性のない経済大国が残る、というところまでは予想、予言していた。
しかし、その予言は、50年を経て、そろそろ効力を失いつつあるかのようだ。
しかも、50年を経ても、三島が問題視した諸課題は、何一つ解決していない。
すると、三島が予言した社会とは異なる社会が到来し、しかも、三島の問題がそのまま残る、という奇妙なことが起こるのか?

三島の死の確か二年後、今度は、三島の代わりにノーベル文学賞を受賞した、という風に感じられもする、川端康成が、逗子でガス自殺した。
ニュース映像で見る、ノーベル賞を受賞した川端康成の顔は、嬉しそうだった。
私はその年の暮れ、多分新聞か何かで見た川端の鎌倉の住所に年賀状を出した。まだ殆ど作品も読んでいないのに、ファンレターめいたことを書いたのだろう。
すると翌年の正月、「迎春」という大きな文字が印刷され、脇に紺色の万年筆で何か一筆書いた年賀状が、川端康成の名で、送られて来た。
筆跡を調べ、確かに本人が書いたものだ、と私は確信していた。
こうして、まだほぼその作品を何も読んでいないにも拘わらず、私は川端康成のファンになった。
しかし、その後の三島の死の衝撃の中で、ノーベル賞は、川端に、何らか世俗的な理由で、転がり込んで来たものなのではないか、という疑問が、私の心の中に生じて来た。
だが、ヘミングウェイと同様、川端にとって、社会的な名誉や成功は、作家としての安寧を齎すものでは到底なかった、ということであり、それなら読者の方も、そのような基準に基づく比較などはやめた方が良い。
そして一つの全体像として見る時、川端康成という作家は、多様な側面を持った、複雑な存在として見えて来る。
・・・・ここは川端について論じる場ではないので、これ以上の考察は他の機会に譲る。

このように、ある一時期に好きになった四人の作家は、全員自殺している。
あるいは、自殺した作家、であるからこそ、好きになった、ということも考えられる。
大雑把に、全員自殺した点では共通するが、しかし、違いもある。

有島は女性と一緒に死んだ。(所謂心中)
三島は男性と一緒に死んだ。(これは、心中とは言わないのか?)
ヘミングウェイと川端は、それぞれ一人で死んだ。

有島は、縊死した。
ヘミングウェイは、猟銃で死んだ。
三島は、日本刀で死んだ。
川端は、ガスで死んだ。

こう見て来ると、同じ自殺と言っても、かなり多様性があって、面白い。

以下は、こういうレベルから一気に下がった余談だが、死もまた堕ちたものだという例として、書く。
成田悠輔という人(何者か殆ど知らない)は、少し前、「高齢者は切腹せよ」という、「高齢者切腹勧奨論」を唱えていた。私はこれについて、以下のような文章を書いた。

この成田という者が「切腹」という自殺の方法を唱えたことに、三島由紀夫の影響があるのかどうか私は知らないが、しかし上で見たように、自殺にはもっといろいろな方法がある。
たった四人の作家でも、いろいろな方法を、使っているのである。
特に、この成田とかいう、よくは知らない者が、高齢者の人口を減らすことを目的として、このような「高齢者切腹勧奨論」を主張しているのだとすれば、二人以上がまとまって死ぬ、心中とか、集団自殺といったものも、その方法の中に含めたらどうか。
そのように、私は思った。

もう一つ余談ながら、最近では、東京大学先端科学技術研究センターとかいう所の、池内某とかいう、得体の知れない者が、さかんに高齢者差別の駄文を垂れ流しているようだ。どうせ書くなら、せめて高齢者集団殺戮の具体的方法の提案でもしてみたらどうか。その位の覚悟ないし洒落もない者が、喧嘩売りまくって、ただで済むなどと、思わない方が良い。

四人の作家の自殺から、安っぽくなった死とか、死の覚悟もない、言論の腐敗とか、いろいろなことが、思い浮かぶのである。

有島武郎の物語論的示唆

以上のように、有島武郎の文章の傾向は、重厚で理付け、論理的である。同じ白樺派の志賀直哉のような文章と比べると、文学的エッセイの類よりも、思想的・哲学的文章に向いており、私小説よりも虚構小説に向いている。
しかし、その小説の中に、私的要素がない、という訳ではない。
有島の多くの小説の特徴は、私的要素はあるが、それが直接的に、私小説のような形で表白されるのではなく、虚構との綯交ぜとして、表現されている、ということである。
しかも、虚構性を持った私小説、という方向に展開されるのではなく、私性を持った虚構小説、という方向に展開された。
また、有島は、当時の社会の中で特権的な階層に生まれたが、自ら希望して北海道に行き、留学からの帰国後も札幌に住まいを持つなど、その行動は遠心的であった。しかしそれは、恵まれた出自の故の自由奔放というのとも、少し違った、不思議な印象を与える。
社会主義的な政治思想に理解を示したが、しかし純粋な社会主義や共産主義には走らず、政治思想的には、漸進的な改革論者であった。有島本人は、自身の不徹底振りに悩んだが、その種の悩みが、その文学や思想の重層的性格につながった可能性もあると、私は思っている。
上のようなことを総合して考えてみると、有島は、一つの方向に、単純に突き進む、ということが出来なかった。常に、それぞれ異なる何かと何かの間で引き裂かれ、その分裂を、文学として形象化していたように思う。
『生れ出づる悩み』の主人公は、芸術と生活の間で、引き裂かれた。
『カインの末裔』の主人公に、明らかに語り手は憧れているが、しかし語り手と重ね合わされた有島が、そのような生存の形態を取ることは、到底無理である。
『或る女』のヒロイン早月葉子は、殆ど暴力的な程の行動の末に、病に倒れ、ベッドに縛り付けられる。

ここで「物語論的示唆」と言うのは、この場合は有島武郎の文学作品から読み取れる、物語の特徴から得られる示唆である。
この場合の示唆とは、物語を読む・読解する場合における示唆ではなく、物語を作り・制作する、という行為に与えられるところの示唆を、意味する。
従って、ここで得られた示唆は、物語生成のための種々の技法や修辞・レトリックの形で、具体化され得る。

この、「膨張する本の記録」という文章を通じて、私がやりたいと考えているのは、昔読んだ小説の記録から、様々な物語論的示唆を得、それに基づいて、上述のように、「物語生成のための種々の技法や修辞・レトリック」を、獲得して行くことである。そして、それを何らかの形で体系化出来れば、さらに良い。























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