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日本に上座部仏教が根付くために

 たびたび言及している通り、私は上座部仏教を信仰しています
 しかし、私は自分の信仰している上座部仏教について誰かに信仰を勧めることをしたことがありません。それは、「人に宗教を勧める」という行為にある友人の姿を想起してしまうからです。


 私の大学の同期に仲の良い友人Wがいました。Wは私と同じ弓道部に所属しており、現役時代を一緒に過ごしました。
 私とWとでは性格は違うのですが、気が合ったので私は彼とつるむことが多かったです。

 部活動を引退し、大学も卒業した後、私は大学職員として卒業した大学に就職し、Wも同じ大学の大学院に進学していたので、二人とも大学におりました。
 ある日、久しぶりにWから食事に誘われました。Wから食事に誘われることは珍しく、私は非常に嬉しくてウキウキしながら当日を迎えました。
 大衆食堂のようなところで待ち合わせして、挨拶をかわし、料理を注文して待っている頃、Wが次のようなことを話し始めました。自分がここ数か月人生に悩んでいたこと、その時、ある教会の人に声をかけられ相談に乗ってもらったこと、その教会にたびたび通うことで信仰心が芽生えたこと、その教会でバプテスマ(洗礼)を受けたこと。
 そこまで聞いて、私はWの話を一旦遮って聞きました。



「もしかして、俺をその教会に勧誘するために飯に誘った?」


 彼の答えはYesでした。


 私はたくさんの感情が湧きました。Wが悩んでいた時に私がそれに気づいてやれず、力になれなかったことを悲しく思ったこと、久しぶりに楽しくWと食事をできると思っていたのに裏切られた気持ちになったこと、仲の良い友人に宗教の勧誘をするWに嫌悪の気持ちが湧いたこと。一度に多くの感情が湧き、私は非常に混乱しました。その混乱した気持ちのまま、Wに怒りをぶつけました。久しぶりに飯に誘ってもらって嬉しかったのに宗教の勧誘をするとは何事か、ふざけるな、と。
 Wは悲しそうな顔をしたまま謝りました。

 私はWが入っている教会を調べました。母体は「ヨハン早稲田キリスト教会」という教会でした。ネットで調べると、韓国人の牧師が創立したプロテスタント系の教会のようでした。勧誘の手口が批判されており、大学に無断で入って学生に声をかけ、初めは教会と知られないような形で勧誘し、ある程度仲良くなってから教会の勧誘をするという団体でした。
 大学ではいろいろなカルトと思しき団体が入り込んでいました。旧統一教会、親鸞会、その他新興宗教も含めていろいろな団体が大学生を勧誘していました。今は分かりませんが、当時の私が勤めていた時は、大学で活動するカルトと思しき団体に注意を呼び掛ける大学職員間のネットワークがありました。そこのブラックリストに件の「ヨハン早稲田キリスト教会」が入っていたので、私は独断でWが入ったその教会はカルトと断じました(実際のところは知りません)。

 私はWをヨハン早稲田キリスト教会から脱退させるために何度も彼と話をしました。広島市内にあったその教会の支部にも何度も直接行き、そこの牧師と何度も口論をしました。
 しかし私がそういう強硬な態度を取ればとるほど、Wは頑なになっていきました。

 そして数年後に遂に、Wはその教会の信者の韓国の女性と結婚しました。
 私はWの結婚式に出席しましたが、異様な雰囲気の結婚式でした。結婚式は当然キリスト教式で、牧師は例の教会の牧師です。参列者のほとんどはその教会の信者で、友人枠は私だけ、家族枠はWの両親だけでした。その中で牧師のよく分からない説教が長時間も続く異様な結婚式でした。
 私が推測するに、Wは新婦の韓国人女性の日本での永住権を得るために利用されたのだと思います。Wの親御もそのように思っていたようでした。Wのお父さんの悔しそうなスピーチが忘れられません。

 その後、Wとは疎遠になり、連絡も取れなくなりました。彼が今、日本にいるのか、国外にいるのかも分かりません。


 私にとってWの一件は非常に大きな喪失体験となりました。そして「本人にとってとても大事で一所懸命になれることも、他人にとっては役に立たず、むしろ有害である場合もある」ということが私の心に痛烈に刻まれたのでした。
 その体験から、私は自分が良いと思った思想や宗教について、人に勧めることをするまい、と決めたのでした。なので、今に至るまで、上座部仏教を人に勧めたことはありません。


 しかし、以下のスペースを聞いて気持ちが変わってきました。

 このスペースの後半で、スペース主の無銘さん以外にも2名の方がスピーカーに加わり、日本における上座部仏教の未来について語っていました。

 日本における上座部仏教の布教活動はスリランカの僧侶 アルボムッレ・スマナサーラ長老が切り開き、それに「マインドフルネス瞑想」の流行なども重なり、日本に上座部仏教が広がって行きました。私も初めて上座部仏教について知ったのはスマナサーラ長老の著書『怒らないこと』です。

 しかし、スマナサーラ長老が広めた上座部仏教は日本において根付いたとは言えず、このままでは一過性のブームとしてスマナサーラ長老が亡くなった後は消えていくのではないか、という憂いがスペースで語られていました。
 スペースでは、そうならないように僧侶でなく在家である我々が頑張ろう、と話されており、私もその話にとても心動かされました。

 私は自分が苦しんでいる時に上座部仏教に出会い、瞑想実践を通じて自分の苦しみと向き合うことができ、その苦しみを減じることができました。スカトー寺に行って修行した際は、ある種の救いを感じました。
 私は上座部仏教に非常に恩があります。また、上座部仏教にはかつての私のように苦しんでいる人を救う力があるとも思っています。
 であれば、上座部仏教が日本において潰えてしまうかもしれない可能性を知っておきながら、私は座視すべきなのでしょうか。もし座視して上座部仏教が日本から潰えたとき、私は何も後悔しないですむでしょうか。
 そこまで考えたとき、私は「日本に上座部仏教が根付くために何か力になりたい」と思いました。

 「力になる」の具体的内容には、私が今まで避けてきた「布教」という行為も入るでしょう。私は今まで自分に禁じてきた行為をしようとも思いました。
 内省してみますと、私がWの件を経て上座部仏教の布教をしないようにしていたのは、私が布教活動をすることで私がWに向けていた嫌悪感を、私が受けることになる可能性を恐れていたのだと思います。
 日本では、多くの人が宗教の布教をされることを嫌がります。オウム真理教の事件も影響しているのかもしれません。だから当然、私が上座部仏教を人に勧めたら、多くの場合、私は相手から嫌悪の気持ちを向けられるでしょう。それは私がWから教会の勧誘をされたとき、嫌悪の気持ちをWにぶつけたことを思い出せば容易に想像できます。

 しかし、私が救われた上座部仏教が日本において潰えてしまう可能性がある状況で、私が嫌悪されるのが嫌だという理由で行動しないのは義にもとるのではないでしょうか。
 また、上座部仏教に触れることで、かつての私のように救われる人もいるかもしれません。
 このまま行動しないでいる理由はありません。


 ということで、私はこれから上座部仏教が日本に根付くための活動をすることを決めました。具体的に何をするかは決まってません。さすがに誰彼構わず勧めることはしないですが、上座部仏教の良さをアピールすることは必要だと感じています。
 私一人が活動したところで微々たるものだと思いますが、私のような人が草の根活動をしていくことが大事であるとも感じています。一人の偉大な人が活動して大きな影響力を持っても、その人がいなくなったら元の木阿弥になる可能性が高いのです(そして実際、今そういう状況になりつつある)。私のような無名なものたちがそこかしこで地道に活動していくことが、本当の意味で「根付く」ことにつながるのだと思います。

 なので、このnoteでも上座部仏教に関する話題が増えるかもしれませんがどうぞご了承ください。宗教の話なんざ読みたくねぇ!って人はどうぞフォロー外してください。
 それでも私の話を聞いてやろうっていう奇特な方はどうぞこれからもお付き合いください。よろしくお願い申し上げます。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!