話を聞く方が好き
私は雑談が苦手です。
ある程度目的のある、例えば仕事の話とか、何らかのテーマがあって集まった人同士で話す会話ならまだ話せます。仕事の話とか、そのテーマに沿った話をすればいいので、まだ何とかなります。
特に共通点があるわけでなく、さあ話しましょうという状況になるとめちゃくちゃ困ります。共通の話題から探らないといけないような状態ですね。
そういう時、相手が積極的にしゃべる方だと私は安心します。相手の話に相槌を打つか、分からないことを質問するか、共感できるところでリアクションを返せば会話が成り立つので。私があまりにも関心のない話題、例えば芸能の話とか美容の話だと反応に苦戦しますが、それでも気まずい沈黙が続くことも無いならまだマシな気持ちになります。
こういう話を友人にしたら「沈黙するのが嫌なんだね」と言われました。確かにそうかもしれません。相手がどう思っているか分からない状況での沈黙を私は気まずく感じます。
上記の例はあまり親しくない相手との状況を想定しましたが、親しい友人相手でも、私は聞く側に回ろうとしがちです。
私が一方的に話して相手が聞く一方になると、私はちょっと居心地が悪くなって相手に水を向けます。気持ちとしては、話4割、聞き6割くらいの塩梅になるように気を付けています。それが聞き7割、8割になっても別に良いのですが、聞き5割、4割になるとちょっと居心地が悪くなります。
「居心地が悪い」というのがどういう心境なのか、もう少し自分を内省してみると、「自分ばっかり話して相手が話せなくて申し訳ない」ではなくて、「自分が一方的に話してるだけで相手は聞きたくないかもしれない」という不安が出てくる感じです。相手に気を遣っているというわけではなく、自分の行動に不安が出てくるといった感じです。
そう考えると、「話を聞く方が好き」ということの内実も掘り下げると意味合いが変わってくるかもしれません。ちょっと掘り下げてみます。
「話を聞いている時=相手が私に話をしている時」であり、その時は間違いなく相手の注意は私に向いています。私は基本的にかまってちゃんなので、相手が私に話しかけてくれている、私に注意が向いている状態そのものが心地よく感じるのです。
また、大げさな言い方をすれば、相手が私に話をしている時は、私は「相手に必要とされている」と感じることができます。
つまり、「話を聞いている状態」の時は相手からの注意の向き方が私にとって心地いいから「話を聞く方が好き」なのでしょう。
ここまで考えると、友達に指摘された「沈黙するのが嫌なんだね」ということの理由も分かってきます。
「沈黙がある=相手が私に話をしていない時」であり、その時は相手の注意が私に向いていない可能性があります。また、私に注意を向けていないということは私が必要とされていない可能性があります。
あくまで可能性なので、実際には相手も私と同じように話し始めるのが苦手で沈黙している場合もあるし、沈黙が苦でなくて沈黙している場合もあると思います。ただ、この場合問題なのは私が上記のように「感じてしまう」ということで、そのために(自分が勝手に)「気まずく感じてしまう」ということです。
相手と沈黙がある時、私は一人で勝手に上記のことを連想し、勝手に気まずくなるため「沈黙が嫌い」なのだと思います。
会話というのは相手があってこそ成り立つもので、そこでは「自分」「相手」「二人の関係性」という少なくとも3つの要素が関係しているはずですが、上記の通り私は「自分」の部分にだけ特に強く注目(執着)して独り相撲を取ってしまう傾向があるようです。
このある種病的な癖ともいうべき傾向には、私の心性の一つの側面の現われがあるようですが、これ以上は話題が拡散してしまうように思いますので、今回はこれで筆をおこうと思います。
ちょっとまとまらない文章になってしまいました。乱文失礼しました。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!