見出し画像

「当事者研究」について

 松葉舎の授業で「当事者研究」というものについて学びました。自分の学びの定着のためにもその学びを言語化してみます。

 「当事者研究」という考え方は精神疾患、あるいは精神障害と呼ばれる分野においてできてきた方法論及び考え方であるようです。

 まず、障害の捉え方について「医学モデル」「社会モデル」と呼ばれる二つの捉え方があるそうです。
 「医学モデル」とは、障害の原因をその人個人に起因するものと考える捉え方です。例えば、以下は身体障害の例ですが、足を悪くして車椅子を使用している人がいるとして、その人が歩道橋を渡れないのは、足を悪くした個人に問題がある、とするような考え方です。
 この例で言えば、その解決策は足が悪い人が歩けるように「治療」することです。そのためには手術が必要なのか、リハビリが必要なのか、その方法は場合に依るでしょうが、「医学モデル」においては、本人の意志に関わらず、「障害」は治療されるべきものとして扱われます。それは、その人自身が自分の生き方を決めるのではなく、社会がその人の生き方を規定することを意味します。

 「医学モデル」に対して「社会モデル」は、障害はその人個人に起因するのではなく、その人の障害(特性)と社会の在り方との関係において作られるものである、とする捉え方です。
 車椅子の例で言えば、歩道橋にエレベーターを設置するかスロープを設置することで、車椅子の人でも歩道橋を利用することができます。つまり「治療」を行わなくても、「歩道橋を渡れない」という問題が解決するのです。社会モデルでは従来障害として扱われていたものであっても、社会の在り方を変えることでそれが障害として問題にならないように変えることができる、と考えます。
 もっと分かりやすい例で言えば、眼鏡やコンタクトレンズの普及が挙げられます。
 視力の低い人は眼鏡やコンタクトレンズが普及していない時代には「視覚障害者」として扱われていたでしょうが、今の時代では眼鏡やコンタクトレンズで矯正できる視力の人は自他ともに「視覚障害者」という認識ではないでしょう。これは、社会の在り方が変わったことによって「障害者」が「健常者」に変わった例と言えるでしょう。

 「社会モデル」で考えるなら、変えるべきは個人の心身機能ではなく社会構造ということになります。そういう考え方は社会運動に結びつきやすいと言えます。こうした流れからウーマンリブやLGBTに関する社会運動が生まれたそうです。

 「当事者研究」はこれらとは少し異なったアプローチです。「自分がどういった障害(特性)を持っているか、その障害はどういった原因で生じているのか」と自分自身を知ること(研究すること)を「当事者研究」と言います。
 このことには「当事者主権」という考え方も大きく関係しています。

 「医学モデル」においては、障害を持っている当事者は、自分で自分の生き方を決められず、外部から生き方を強制されます(本人の意志とは関係なくリハビリをさせられる、など)。しかし「社会モデル」においては、当事者は必ずしも外部から生き方を強制されず、逆に外部(社会)の在り方を変えることを要求するという社会運動も行えます。
 ただ、当事者は社会がどのように変われば自分の障害が障害として扱われなくなるのかということについて答えを持っているわけではありません。というか、その障害が障害で無くなる社会というのは今までなかった社会を作ることと同義なので、当事者に限らず全ての人にとって正解は分かりません。
 そこで、まず自分自身の障害(特性)がどのようなものかを知ろう、どういった原因で「障害」となるのかを知ろう、という考え方が「当事者研究」につながりました。

 自分自身のことを知ろう(研究しよう)、という方向性は、私が行っている自己探求にも重なるところがあります。私の自己探求と違うことがあるとするなら、当事者研究は一人で行うものではなく、当事者同士が協力して行うものである、というところです。

 ところで、障害を持っている人、言い換えればマイノリティが自分の特性を言葉で表現しようとするとき、その言葉は自分たちの言葉で語る必要があります。言葉というものは本来的にマジョリティ(この場合は「健常者」)のものなので、マイノリティが自分たちを表す言葉は自分たちで作り上げる必要があります。そのため、当事者研究において当事者同士はゆるやかにつながりを持つ関係性を作れます。

 実は、社会モデルにおいて社会運動に向かう動きの中で、マイノリティ同士の中でさらにつまはじきにされる人たちがいました。社会運動においては社会と敵対することになりがちなため、人を敵味方で分けることになります。その場合、障害を持っている人同士でも、その障害の種類や度合いによって「障害者」の枠組みに入れない人がいました。いわゆる「グレーゾーン」あるいは「ボーダーライン」と呼ばれる人々です。
 「グレーゾーン」の人たちは健常者という枠に入れないマイノリティでありながら、「障害者」という枠にも入れない、いわばマイノリティの中のマイノリティという立ち位置に置かれました。

 しかし、当事者研究においては、障害の度合いや種類の違いはむしろ研究の材料として貴重です。研究にとっては生データが最も大事なので、例えば同じ「多動」という障害(特性)を持つ人同士でも、その中身が違うのであれば、どのように違うのか、それを研究することに意味があります。そうであれば、障害の度合いの違いによって排斥されてきた人同士が、「同じ研究者」というつながりを保てるのではないか。当事者研究にはそうした希望が生まれた側面もあるそうです。


 以上が私の理解した当事者研究の内容及び生まれた流れです。聞きかじった知識なので間違いがあるかもしれません。私のnoteのフォロワーさんには大学院で当事者研究について論文を書いた秀才がいるので、間違ったところがあればコメント欄で訂正してくれるでしょう。長文で笑

 当事者研究は、私が行っている自己探求にも重なるところがあり、参考になるところも大いにありそうなので、今後もう少し深く学んでいきたいと思いました。


 本日は以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました!
 スキやコメントいただけると嬉しいです。