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文字で語ることと人に語ること

 自分の考えを言語化するのは考えを深めるのにとても有効だと思っていますが、文字で言語化することと話して言語化するのとでは、自分に与える効果が違うな、と最近思うようになりました。

 私は最近はnoteで記事を書くことで自分の思考や思いを言葉にしています。それは、自分の思いや思考を自分自身ではっきり確認し、認識する作業になっています。自分の頭に浮かんだふわっとした思いや思考の曖昧な輪郭を確定し、それらに色や形を与え、固定化していくようなイメージです。 

 それに対して、人に話して言語化するときは、思考などを固定化させていくと言うより、思考などをより広げていくような感覚があります。

 先日、ある方とnoteで書いた記事と同じ内容を話したことがありました
 noteで書いた内容と話した内容は同じだったのですが、文字で書くのとは違った感触が私にはありました。

 相手に話をする時は、文字にするのと違って相手との声以外のやり取りも行われます。相手の相槌の様子とか話の途切れ目の間とか、相手とのやり取りの上で話が進みます。自分のタイミングだけで話はできません。
 すると、文字でまとめたときとは違う話の持って行き方になったりします。口が勝手に動くといいますか。文字で言語化するときは、文章を後で読み返したりできますが、話して言語化するときは、声が一瞬一瞬発しては消えていくので、文字の時ほど論理的に整った形で現れません。どちらかというと、整合性や論理性より、勢いや流れといったものが重視されるように感じます。
 そのため、文章を書く時とは話の展開や力点が変わることがあり、そうすることで話の印象が文字で表すときと異なることがあります。
 また、相手の反応によって話が広がったり、別の方向に転がったりします。そうすることで自分一人では気づけなかった視点や、別の事柄との関連性などが見えてくることがあります。
 
 総じて、文字で言語化するのと比べて、話をして言語化するのは考えがどんどん膨らんでいく感覚があります。思考の輪郭を確定させて固定化させるというより、一つの思考と別の思考を繋げてその関連性から別の視野を広げたり、新しい視野につなげたりする感覚があります。


 文字にして言語化するのと話して言語化するのは、同じ言語化でもそれが自分にもたらす影響は反対ともいえるほど違います。
 今まで私はnoteで文字による言語化ばかりしてきましたが、人に話すことで言語化する行為も並行して行った方が思考の広がり、深まりが増すのではないか、と思い始めてきました。
 そのため、人に自分の思考を話す機会も増やしたいと思うようになりましたが、特別手段があるわけではないので、人様のスペースにお邪魔したり、松葉舎での対話の時間を大事にしようと思っています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!