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身体は借り物

 最近とても不思議な感覚に襲われることがあります。それは「自分の身体は預かりものだ」という感覚です。


 この感覚の前提となるものはいくつかあります。
 まず一つは、自分の身体は「自分のものではない」という感覚です。

 例えば、自分がお金を払って買った道具、衣服、本。それらは何となく「自分のもの」という感覚を持ってしまいます。しかし、その「自分のもの」という感覚を、私は自分自身の身体になぜか感じられないことがあるのです。身体を「自分のもの」と思うよりは「誰かから借りたもの」という感覚が生じてしまうのです。

 誰かから借りたものがあったとしたら、みなさんはそれをどのように扱うでしょうか。人によるとは思いますが、私は自分のものよりも大事に扱うように気を付けます。
 人から漫画を借りた時、その漫画を読むときは折り目が付かないように気を付けるし、返すときも汚れないように袋に包みます。
 それと同じように、自分の身体が誰かから借りたものだと感じられてから、自分自身の身体を雑に扱うことに抵抗が出てきました。いつか返すとき、汚くしたり壊していたら悪い、と思ってしまうのに似た感覚です。

 前提となるもう一つの感覚は、借りる主体である「私」が身体とは別にいる、ということです。
 「体が借り物である」ということは、「身体以外の別の何かが身体を借りているのだ」ということになります。その「何か」を私はひとまず「心」と呼ぼうと思います。

 私が「心」と呼んでいる「それ」は、ある文化圏なら「魂」と呼んだり「アートマン」と呼んだりするものだと思います。もしくは、文化人類学で言われる、未開の民族に広く共通する「生まれ変わりの主体」とも呼べるかもしれません。
 とにかく、「それ」は「私」と指し示せる何かであり、その「私」は身体のような物質的なものではないものだ、という感覚があります。

 余談ですが、このような「私」の捉え方は、私が学んでいる上座部仏教的には間違った見解(邪見)と言われます。
 仏教においては、「常一主宰の実体我は存在しない」という立場において「無我」が説かれます。だから私が「心」と呼んだもの、身体を借りている主体としての「私」というものも存在するとは言えないので、その「私」を想定している私の見解は仏教的には間違いとなります。
 だけどまあ、良いんですよ。仏教的には間違いであっても、今の私にはそうだとしか思えないのですから。

 閑話休題。
 とにもかくにも、私は自分の主体を物質である身体ではなく心においている、という感覚が前提としてあります。


 ところで、「自分の身体は借り物だ」という感覚は、実際的に役に立つ場面があります。
 それは、先にも述べましたが、借りているものだから大事に扱おう、という気持ちになることです。

 私は自分に対する寛容さや愛情というものが欠けた人間なので、「私」と自分の身体を混同していた時は、「私」を雑に扱うのと同じように自分の身体も雑に扱っていました。
 身体を労わることを億劫がったり、自分の欲のために身体を無理に扱っていました。例えば、「食べたい!」という我欲を満たすために、身体に悪いと分かりつつジャンキーなものを食べたり、ジャンキーでないものでも食べ過ぎてしまったり。「遊びたい!」という我欲を満たすために、もう寝た方が良いのに夜更かししてゲームをしてしまったり。林業で材を動かすときに身体に無理が来るのを承知で無理やり力づくで動かそうとしたり。
 そんな風に身体を雑に扱っていました。

 しかし、身体が人から借りたものであるなら、大事に扱おうという気になります。自分の身体を触れる手つきはなるべく優しくしたくなるし、身体が休息を必要としているなら、やりたいことがあっても休もうという気になります。
 顛倒てんとうした考えに聞こえるかもしれませんが、私にとっては自分の身体が「私のものだ!」と思っていた時より、「借り物だ」と思っている時の方が自分の身体に優しくできるのです。


 それと、自分の身体が借り物だと思うと、ちょっとばかり人生に対して思うことが変わってきました。
 
 私が生きている中で何かを感じたり、考えたり、なにか行為をすることが出来るのは、身体があるからです。そして「生きている」とは身体が動いている状態の時です。いや、正確に言うと「私(心)」が身体とくっついていつつ身体が動いている状態が「生きている」と呼べる状態であり、「私(心)」が身体と離れ離れになって身体がただの物体に戻って動かなくなってしまった時が「死んだ」状態である、ということです。
 そうであるなら、身体が私(心)とくっついて動いているうちに、この身体を使って何をするかが大事になるな、と思いました。

 私は今まで、「私(心)」の欲を満たすことに流されることが多かったです。食欲を満たしたい、人に認められたい、女性にモテたい、お金が欲しい、などなど。
 だけど、せっかく身体を「借りて」生きているのに、そして身体の借用期間は有限なのに、我欲を満たすために身体を使うのはもったいないな、と思うようになりました。

 なぜなら、食欲を満たしたい、とか女性にモテたい、とか人に認められたい、とか、そうしたのは全部、結局は身体の欲を満たすためだけの行為だからです。それらは身体が無かったら成り立たない行為です。そしてそれらは身体の借用期間が過ぎて、身体と離れ離れになった後には、何も残りません。身体を返した後には何の意味も無くなるようなことのために借用期間を過ごすのはもったいなくないか?と思われたのでした。

 「借用期間が有限なのに身体の欲を満たすこと、身体があるから成り立つことにばかり意を注ぐのはもったいない」という考え方は、私の趣味趣向が大きく影響していると思います。
 私は一時的なものにはあまり価値を見出せなくて、長く続くものに価値を見出す傾向(癖)があります。ベストセラーよりロングセラーというやつです。

 そういう傾向があるから、私はいずれ衰える人の見た目の美しさにはあまり関心が持てずその人の生き様のような内面に惹かれるのだと思います。
 この場合の「内面」というものが、私にとって「私(心)」と呼んでいるものなのだと思います。だから前段の文章を言い換えるなら、私は「身体の美しさよりこころの美しさの方を大事に思う」ということになるでしょう。

 そして身体が借り物であり、借用期間が有限であるなら、生きている間にすべきことは身体を綺麗にしたり健康にしたりすることではないでしょう。それよりは使用期間が長い(はずの)「心(私)」をよりマシなものにすることの方が大事だと、私には思われるのです。
 物質である身体を使って、「心」をマシなものにすることは出来ると思います。瞑想修行も身体が無ければできませんし、人のためになることをすること(慈悲行)も身体が無ければできません。自分を見つめて自分自身への洞察、寛容、受容といったものを図るにしろ、自分の外に目を向けて他に慈悲の実践を行うにしろ、身体が動くからこそ(=生きているからこそ)できることです。身体がわたしと離れてしまって、動かなくなってしまったら(=死んでしまったら)、修行も慈悲行もできないのです。
 ならば生きているうちに存分に活用しないと!と私には思われるのです。


 そうは言っても、「私の身体は借り物だ」という感覚は常に生じているわけではありません。割と頻繁に生じる日もあれば、一日の内に全く生じない日もあります。全く生じない日は、身体を自分の欲望を満たすために無理に扱ってしまいます。
 私としては、自分の身体が借り物である、という感覚の時の方が人生をちゃんと生きて居られている気がするので、「身体は借り物」モードで生きている時間を長くしたいなぁと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!