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他者の働きかけによる見解の深化あるいは修正

 前回の松葉舎での授業で、江本さんがその前の授業で私が話したことに関連する話題を振ってくださった。

 前回の授業の時、私の「環境改善活動」について江本さんは「牛を救って羊を贄にした王」の故事を例に話を深めてくださったのですが、その後私が感銘を受けた「土中環境」を読んでくださったとのことでした。
 そして、読んだ感想として、たしかに土中環境の手法が環境改「善」と呼び得る活動のように思えた、とのことでした。

 私は上手く説明できませんでしたが、江本さんが土中環境を読んで感じられたことの説明を聞いて、私も理解を深めることができました。以下、江本さんが解説された説明を基に、私が再解釈した土中環境の内容を書きます。

 土中環境で示されている環境の改善は、何か一つの生物種だけが生き残る環境ではなく、その環境において様々な生物種が共存していく環境を作ることです。例えば嫌気性微生物だけが生息していた環境を好気性微生物も生息できるような環境に「改善」することで、その他の多くの動植物を生かすことができるようにします。
 土中環境の手法で環境を変化させれば、嫌気性微生物の個体数は減りますが、その他の生物種が増えることで結果として嫌気性微生物にとっても生存しやすい環境になります。
 なぜなら、生物にとってただ一つの生物種だけが生息する環境というのは非常に不安定で崩れやすい状況だからです。気候などが変化した場合、一種類だけの生物種がいる環境だとその変化を直接受けてしまいます。その結果、その変化に対応できず、絶滅してしまうこともあります。

 この機微を別の例で言えば、人と細菌との関係があります。
 人間は皮膚の表面にも腸内にも細菌が生息しています(皮膚細菌叢と腸内細菌叢)。この細菌群は人間の免疫機能に非常に大きく関わっています。それらの細菌叢があるから、病原体となる様々な細菌・ウイルスから身を守ることができています。人間も他の生物の助けを借りて免疫機能を働かせているのです。だから子どもの頃から殺菌やら抗菌やらをし続けていると免疫力が落ちて病気にかかりやすい、と言われるのです。
 人間の皮膚などにいる細菌にとっても、人間が生きて恒常性を保っているからこそ、それらの細菌が皮膚や腸内において世代交代をしつつ生き続けることができます。
 人と細菌はそうやって、いわば共生関係を築いているのです。

 これと同様で、嫌気性微生物しかいない環境は嫌気性微生物にとっても不安定で脆く、気象の変化などのちょっとした環境の変化で全滅してしまう可能性があります。
 しかし嫌気性微生物以外にも多くの細菌や動植物がいれば、気象の変化があってもその環境全体の変化は少なくてすみます。また環境全体に大きく影響があったとしてもその変化に耐えうる種が残っていれば、環境が以前の状態に戻ることができます。環境の変化によって一旦大きく個体数を減らしても、環境が元に戻っていく過程で回復していくことができる可能性もあります。
 そのため、一つの生物種のみが生息しているより、多様な生物種が生息している環境の方がより強い環境と言えます。今風の言葉を使えば「持続可能な環境」ということになるでしょうか。

 江本さんの土中環境の解説を聞きながら、私はそのように理解しました。


 また、江本さんは「牛を救って羊を贄にした王の逸話」について、私に意図が上手く伝わっていなかったため補足をしてくださいました。

 私は「牛を救って羊を贄にする」という逸話から、善悪の相対化という命題を受けとりました。つまり目の前の牛を救うことはできても、代わりに羊を殺すことになるのでは、それは本当の意味での「善」と言えるのか、という問題です。
 しかし江本さんが伝えたかったのは、善悪の相対化についてだけではなく、そこからどうやって倫理を作っていくか、ということでした。
 そして倫理を作っていくには、自分の身近なところから積み上げていくしかないのではないか、という提案でした。

 牛と羊の例で言えば、王が牛を救ったのは、王の目の前に牛が現れ、牛の鳴き声を聴いたからでした。羊は代わりの贄になりましたが、羊は王から遠い存在で、羊の声は王に届かなかったのかもしれません。それを第三者的な視点から、「結局どちらかを殺しているのだから意味がない」とするのでは善悪の基準を壊しただけで結局どう行動すればいいか分からなくなります。
 そうではなく、王(当事者)にとっては牛が身近であったから助けたのであって、それ自体は一つの善悪の基準になる、そうやって確実に基準となるところを押さえていって積み重ねていくことで倫理を作っていく必要があるのではないか、という提案でした。
 もちろんこの基準は完全なものではなく、状況や関係性によって変わりますし、常にアップデートをしていく必要があるものですが、全てを相対化してしまって結局何の倫理も打ち立てられないよりは、不完全であっても確実なところから少しずつ自分なりの倫理を積み上げていく営為が必要なのではないか、という問題提起と受け取りました。


 自分の心を見つめることは自分一人でもできますが、自分の視野を広げていくには他者の視点が必要になることを強く感じました。
 自分の心を見つめたり、自分一人で思索を深める時間も必要ですが、このように先達からの導きもいただきつつ、自分の考えを広げたり方向修正することも積極的に行っていきたいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!