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苦しみを生じる原因を無くすか、その原因から別のものを生じさせるか

 仏教では、人々が苦しむのは煩悩(何かを欲する心あるいは何かを拒絶する心)があるためであり、苦しみからの解放は煩悩を滅尽して涅槃に至る(悟りを開く)しかない、と説かれます。
 私は単純な人間なので、仏教書や僧侶の方の説法でそう説かれているので「煩悩は無くすべきなんだ」と思っていましたが、最近、必ずしもそうでもないかもしれないと思い始めました。

 ひとまず、苦しみを生むのは煩悩である、という仏教の前提が正しいものとして話を進めます。
 煩悩から苦しみが生じるのだから、煩悩を無くせば苦しみも無くなる、というのは筋が通っています。そして仏教ではそれを奨励しています。
 しかし、苦しみが生じるのとは別の方向性に煩悩を向けることで、結果として苦しみが少なくなるという方法もあるように思います。

 例えば、過去の家族関係で非常に苦しみを覚えている人がいるとします。その方は親に対してぬぐいえない恨みを抱えて苦しんでいるのかもしれないし、自分を認めてほしいという渇望から苦しんでいるのかもしれません。いずれにしろ、家族関係に強い執着を持っているから苦しんでいます。
 先述の通り、仏教ではその執着を断ち、煩悩を滅尽することで苦しみからの解放を目指します。
 しかし、その人が自分の苦しみを創作のエネルギーとして向けたならどうでしょう。その苦しみを元に絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作ったり。苦しみを反映して暗いものになるかもしれないし、得たかった好ましいものを想像して明るいものになるかもしれませんが、その人の心の苦しみを和らげたり癒したりする効果があるでしょう。心理学で言われるところの防衛機制の昇華というものですね。
 こうした方法は、仏教で言う煩悩を滅尽すると言う方法論ではありませんが、心の苦しみを軽減するための有効な方法です。

 創作でなくても、自分の能力の低さに不全感を覚えるから能力を磨こうと努力したり、関係性に不全感を覚えるからコミュニケーション能力を磨いたり自分の心を整える方法を試したりなど、自分自身の苦しみがあるために、その苦しみの解消のために何か行動をすることは苦しみの軽減につながることもあります。
 
 数学でベクトルという概念があります。大きさと向きを表す概念です。
 苦しみが生じるという現象をベクトルで例えると、煩悩の大きさが苦しみを増す方向に向いていると言えるかと思います。
 仏教のアプローチはそのベクトルの力を0にすることです。大きさが0になるなら苦しみを生じる力はありませんので、苦しみは無くなります。
 昇華のアプローチは大きさを変えるのではなく向きを変える方法です。自分を責めたり、他人を責める、というような方向であったベクトルを、創作であったり自己研鑽の方向に向き直すことが昇華です。大きさが変わっていないため、そのベクトルには苦しみを生む力は残っていますが、今まで苦しみと感じていたものの内実は変化します。

 世の自己啓発の方法や精神医療の方法は大別すればベクトルの方向を変える方法だと思います。ベクトルの力を0にする方法ではありません。
 しかし多くの人にとってはそれで十分ではないかなと私は思うようになりました。ベクトルの力を0にしないと生きられないほどの大きな苦しみを抱えている人は、おそらく少数派であると思います。だからこそ、仏教の方法論(煩悩を滅尽すること)はいつの時代も主流派にならなかったのだと思います。

 私は長らく、仏教の方法論である煩悩の滅尽(ベクトルの力を0にする方法)が唯一絶対の苦しみの解放だと思っていましたが、どうもそれは多くの人にとってはそこまで求める必要のないものであるし、何より私自身がそこまでのものを求めていないと最近気づいてきたので、ベクトルの方向を変えるという方法を探してみようかと思うようになりました。
 意識していませんでしたが、私の自己探求はベクトルの力を0にするものではなく、方向を変えるものであるようだったので、私は自然とその方向を志向していたのかもしれません。



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