世はこともなし
お茶を飲みながらぼぅとする。特に何を考えるわけでもなく、ただ、お茶を飲む。ふいに、窓に目を向けると、光が眩しさをつれて部屋を照らしてくれているのがわかる。あまりにも晴れやかな空は、誰かを祝福しているようにさえ、感じられる。
けれど、きっと、そんなことは、ない。
なかなか、思考というものはやめようとしても、とめようとしても、そうはならないらしい。
何もできずにいる私をこうして取り残しても、世はこともなし。何事もなく、回っていく。
そう、何事も、なく。
ただそこにあるものを、どう解釈しようと、どう受け止めようと、当人たちの勝手である以上、それ以上の意味を持たない。持たないゆえに、どんなふうにもつなげることができる。それは、ひとつの救いであろう。
それはずいぶん前からわかっていたことだし、そうした思いこみこそが力になりうる場面もあると、そう感じることだって、必要なことだ。
当たり前も特別も、世界にあるのではなく、自分の中にあるものだ。
それと同じように、私がここにいようが、いまいが、なんの変わりもなければ、ただ変わっていく、この世界の付属品であったことに、今更何を感じる必要があるだろう。
それでも、実際に目の当たりにすると、少なからず衝撃的なものだ。
体は動く。頭は回る。体調は普通で、何不自由ない。けれど、私はもう、世間との接触を断たされている。それが決まりごとである以上、私にはどうしようもない。どうしようもないし、実際、なんの変わりもない。
少なからず困る人もいると思う。残念がる人もいると思う。それは、でも、小さなエラーのようなもので……いや、きっと、それが仮に大きなエラーであったとしても、この世界にとっては些細なことだ。人の世界の中でさえ、月日が経てばなんてことのないものに移っていくのだから。
所詮、そんなものだったのだろう。
私の存在なんて、そんなもので。
いても、いなくても、変わらない。
世はこともなし。
だからといって、生きることを放棄するわけにはいかない。今もまだ、こうして、鼓動し、熱が通り、息をしている。
どこにいてもいなくても変わらないのなら、今、ここにいる、ここで生きている、ことを選んでも問題ない。
そんなことを言い聞かせながら、私は、すっかり冷め切ったお茶を、飲み干した。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。