桜には何も関係ないところで
久しぶりに、本当に久しぶりに、さる公園まで夜桜を見に出かけた。
ここ数年、何とはなしに訪れることもなく、すっかりとそこで桜を見に行くことも忘れほうけていたが、これもまた何とはなしに思いついて、出かけることにした。
足が遠のいていた理由を考えてみても、特に理由は思いつかない。思い入れがある場所でもなく、忘れたいものを残したわけでもない。
公園にたどり着いたころには、薄闇がぼんやりと景色を滲ませているような、そんな空模様であった。
広々としたこの公園に、どんなものがあるのか正確には覚えていなかったが、地図を眺めている間に少しばかり記憶も蘇る。なかなかに、広い公園であることは覚えていたが、改めて地図を見ると記憶よりも広く思えるから不思議だ。
地図で現在地を照らし合わせながら「さくらんやま」と書かれている方面を確認し、そこに向けて歩く。こんな時間でも人はちらほらとおり、犬の散歩をしている人もいれば、ランニングしている人もいる。遠くには子どもたちの甲高い声も聞こえた。この暗さではさすがに危ないのでは? なんて思ってもいたが、道中のアスレチックを横目で見ると、ちょうど帰り支度をしているときであった。
山のほうへと歩いていく最中、遠くのほうに、かすかに桜の木が見えた。しかし、そこから見てもわかるくらい、何となく、身すばらしさを感じる。街灯がほとんどないことが要因ではないことに、遠目ながら気づいた。
到着して改めて見ると、落胆するほどに残念な風景が広がっていた。
桜の木は無残にも切られており、微かに残されたところから、花が ちゃん ちゃん と咲いている。帰ってそれが儚さを生み出してもいるが、儚さよりもむしろ、衰退に思えてならなかった。
いつからこんな姿になったのかはわからないが、通りゆく人の声を聞くには
「やっぱり、病気になって桜を大量に切ったのは本当だったんだね。こんなになっているとはね」
ということであった。
私は呆然とその話しを盗み聞きしながら桜を見つめた。
このまま帰ろうかとも思ったが、まだ奥に道が続いてもおり、ひとまずそこまで行ってみることにする。
そこは、ちょうど山のてっぺんだった。
そこには、すばらしい景色が広がっていた。
そこは、桜の若木、とでもいう木々がまだまだ小さいながらも立派に咲き誇り、悠然と立っている姿があった。その力強さと、桜本来の持つ儚さが混ざったようにも感じーーなどという、評価に色眼鏡をかけてしまうのは、先ほどの桜がちらついてしまうからに違いない。遠くを見ても、夜景がなんとも言えず、きれいな風景を見せてくれる。
私はしばらく夜風を受けながら、その桜たちを見ていた。
目の前の美しい景色たちを堪能しながらも、後ろめたさを感じてしまうのは、きっと振り向いた先の無残な桜の姿が脳裏にあるからであろう。しかし、それも勝手なものだ。
桜には、なんの関係もない。
勝手に植えられ、勝手に称賛され、勝手に切られ、勝手に残念に思われる。
桜たちには、何も関係のないところで、桜たちの言葉を聞くこともなく、桜たちの都合も考えずに想いを馳せる。
私たちがただ、きれいだ、美しい、と感じ、切られた無残な姿を見て、残念に思う。それは、なんと傲慢で、身勝手なことであろう。
その傲慢さを、その心を感じてなおーー桜の花に特別なものを感じてしまうのは、なぜだろう。
夜桜の幻想を目に焼きつけながら、私もこうして一本の木であるようにこの場から動けず、しばらくの間それに任せるまま、静かに、時を刻んでいた。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。