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OFFICE TOSHIKI NASU/自分の言葉の呪いから解放される

こんにちは。
みなさん、体調はいかがでしょうか。
ゴールデンウィーク後半ということで高速道路がすごいことになっていました。車内で冷房が効いていてもしっかりと水分補給しましょうね。

さて、今日は自分の言葉の呪いから解放されるという記事を書いていきたいと思います。

きっかけは山口周さんのラジオで取り上げられていた社会構成主義でした。

昨日、「あいまい」への理解からはじまるという記事では「ではなければならない」という自分の定義が自分を傷つけるという言葉を紹介しました。

きっかけは「鍼灸の効果は不透明だ」という考えに対してだったのですが、その答えがなぜ生まれたのか。

もちろん言っている意味を理解していますし、このことを批判しているわけではありません。

ただ、世の中にあるものは大抵が曖昧で、知った気になっていたり、分かっているつもりになってしまいます。

その答えは何か。
それは「現実だと思っているものは社会的に出来上がっている」ということ。
つまり、正義とか悪とか道徳などの観点も同じようなことが言えます。

自然科学もそうです。
1+1は2ということは誰もが知っていること。
しかし、1つの泥だんごと1つの泥だんごを合わせると1つの泥だんごになる。
これは十進法で考えると2だけれど、二進法で考えると10になるということです。
いろんな前提で考えた時に2は正しいけれど、実際のところはその答えは社会がつくっている正しい。

これを社会構成主義といいます。

鍼灸が効くか効かないかについて、医師が「鍼灸は科学ではなく非科学だ」といいますが、みなさんはコロナ禍を経験して色々なことに気づいたのではないでしょうか?
例えるなら1+1は2ではなかった。
そしてその答え合わせを誰もせず社会に任せる。

大切なことは、なぜそう思うのか、なぜそう考えるのかを自分で問うことです。
そうすると多くのことに根拠がないことに気がつきます。
実際のところは自分がそう思っているだけに過ぎないのです。

山口さんが、「べきである」「なければならない」は呪いだと紹介していましたが、この呪いは自分を苦しめることにもなるし、他人に対しても苦しみを生むことになります。

だから「自分はこうあるべき」「社会はこうあるべき」という考えがで出てきたら、そのことに対して自分はなぜそう考えるかフォーカスしてみると良いそうです。
そして、そうでない時は仕方がないという考えが生じたら呪いから解放されると。

自分の価値観は自分の外側の影響を受けているものに過ぎません。
電車が遅れることも、茹卵が割れることも、仕方ないのです。
その考えや価値観を他人に押し付けるのは善なのか悪なのか道徳的なのか。

鍼灸は科学的でないという答えを自分の価値観としてあるなら鍼灸治療を受けなくても良いと思います。
そして科学であっても受けない人は受けません。
自分にとって心地よいものか心地よくないかで判断してみてください。
それは曖昧なものですが曖昧で良いのです。

目の前にいる人に対しての愛の定義はありますか?

その答えはとても曖昧なものだと思うのです。

目には見えない体の変化を感じることも、そんな曖昧さのなかの一部ではないでしょうか。

そんなことを私は思うのです。

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