ひとりあそび

こんにちは。ぱるむです。
今回はひとりあそびについてお話しします。

BeReal.というSNSがあります。
一日に一回通知が来て、二分以内に写真を撮りBeReal.に投稿することができたら、その日のうちにもう二枚写真を撮ることができるというSNSです。
通知が鳴った際その場で写真を撮るため、よりリアルタイムでのわたしを共有することができます。

ある友人が、「BeReal.を始めてから、友達が思っている以上に誰かと一緒に居るということに気が付いた。もっと外に出なくては、と思えた」と言っていました。実際、彼女のBeReal.では楽しそうに友人と笑ている写真がたくさん投稿されています。


そこで、私はそこそこひとりあそびに精通していると気が付きました。
ひとりで時間を過ごすことが苦ではないし、寂しいとも思わない。

一時期、バーチャルおばあちゃんが一部の界隈で話題となりました。立ち絵がかわいらしいおばあちゃんで、喋り方もおばあちゃんに似せています。そのため、FPSなどの激しいゲームをバーチャルおばあちゃんがプレイすると、ギャップが大変面白いのです。
バーチャルおばあちゃんの中の人は、別名義でもインターネットで活動されています。
そちらの活動では、ぬいぐるみを手で動かして、言葉を発して、あたかもそのぬいぐるみが自分の意志で動いて喋ているように見せる動画を作製してます。クオリティがとても高く、また彼のぬいぐるみへの愛がひしひしと伝わるのでつい見入ってしまいます。

彼はひとりあそびの天才だと思います。
このインターネット活動を始めたきっかけは分かりません。
私は勝手な憶測で、彼に親近感を抱いています。
ぬいぐるみ遊びは一般に子ども遊びです。
ストレスのかかる日常から少しでも逃れたいという思いから、ぬいぐるみ遊びの様子をインターネット上に投稿したのかもしれません。
私はここ最近、誰かに頼って子どものように甘やかされたい、と思っていたので、彼がぬいぐるみ遊びを馬鹿まじめにすることが理解できました。


自分一人で欲求を満たして、自分一人で楽しみを見いだせる人は魅力的に思えます。
もちろん、他者と交流を持つことが悪いと言っているわけではありません。
ただ、よりリアルを、より「今」に重点を置いたSNSが流行することで、「誰かと一緒に居なくてはいけない」という焦燥感にかられる人が増えるのは寂しいと感じます。

人に依存しすぎることが怖いと感じます。
誰しも一人では生きていくことができません。
誰しも人に依存しています。
私は依存先を分散しています。
勉強や進路のことは親戚のおばさんに、日常のささいなことは恋人に、なんでもない愚痴は友人に、考えがぐるぐる回って手に負えないときはゼミの友人に、など明確に分けているわけではありませんが、常に頼りたい、大事にしたいと思える人に依存して生きています。

アルバイト先の後輩はある特定の人物に依存してしまう傾向があります。
彼女は大学での人間関係に悩み、アルバイト先の先輩に傾倒しています。
自分自身で、「先輩に依存している。先輩に申し訳ないけれど日常で無性に寂しさを感じる」と言っていました。
そのため、彼女に恋人ができたら、きっとその恋人に依存して悪い方向に進んで行ってしまいそうで、危惧しています。


一人の人に依存したり、自分の価値を他人に見出すことが無意味だと感じています。

私は元恋人に依存していました。
彼だけが私を救ってくれるし、分かってくれると妄信していました。
目が覚めて冷静に二人の関係性を見つめると、それは陳腐な関係性でした。
私が彼に対して愛を与えていたのに、彼は私を消費していた。
依存したせいで、多くの友人からの信頼を失った。
一人の人に依存することは本当に無意味で、多くの大切なものをおろそかにしてしまう。

また、他人に自分の価値を見出すことも無意味です。
人それぞれの価値観がある。もし、他者に自分の価値観を見出すのであれば、それは他者の価値観に自分を変形させることとほぼ同義だと思います。
「彼に好きだと言われたから、私は女としての価値がある」
「店長に褒められなければ私は仕事ができたといえない、認められなければ」
これは、彼、あるいは店長に自分の存在意義をみいだしていることになります。
彼、あるいは店長がいなくなったら?
彼、あるいは店長との関係性が悪化したら?
それはあなたの存在意義がなくなることと等しくなります。

他人に自分の価値を見出す理由は、自分自身の自己肯定感が低いからだと思います。
どうしたら他人軸に左右されずに自己肯定感を上げることができるのでしょうか。
成功体験が少ないから?
生まれながらに持っているものが乏しいから?
幼少期からの劣等感?
これは非常に難しいことです。
自己肯定感は、自己肯定感の枠組みから脱したときに、そのしがらみから解放されると思います。

自己肯定感をあげよう、という方向性ではなく
自己肯定感を考えないようにしよう、という方向性の方がうまくいくと思います。
自己肯定感は、ありのままの自分を受け入れる、認めるという感覚のことです。
自己肯定感をあげよう、あげようとしているうちは、
自分自身を受け入れよう、認めようと頑張っているということです。
つまり、自分と向き合って無理にでも好きになろうとしている状態です。
自己肯定感のしがらみから抜け出すと、自分自身の何が好きで何が好きじゃないのか、という議論をしなくなります。
いい意味で自分自身に無関心になります。

私は元恋人のモラハラで自己肯定感が最底辺でした。
1年半以上自己否定や自己嫌悪を繰り返してもがいていました。
しかし、彼と別れて、全てから解放されると
自分自身に目を向けなくなりました。
自分を受け入れようと努力したり、自分の存在意義を感じたりする時間が、もっと有意義なことを考える時間に変わりました。

だからこそ、自分の価値が無い、存在意義に低迷している、という人は
自分のことを考える時間を減らすことも大切なのではないかと思いました。


SNSの「今」を追求する風潮がよくわかりません。
「今」を周囲に発信することで承認欲求は満たせるかもしれません。
それと同時に取り残されている感じや焦燥感、無性な虚無感に苛まれる弊害もあります。

私はBeReal.を始めて一か月半ほど経ちます。
大学に友人がいないため、どの投稿も自分自身しか写っていないです。
悲しい。
けれども、私はひとりあそびが苦ではないので一人で楽しんでいます。
悲しいことに、その楽しさは写真に写すことができません。

もちろん、私はアルバイト先の店長やお客さん、後輩に感謝の言葉を頂いたり、褒められたりすると、「ここの組織にいてよかった」と安心します。
その組織に置いての存在意義を感じます。
ゼミでも、この記事の文章や、私の考えを褒めてもらえると自分を肯定してもいい、と得意になってしまいます。
大前提として、人は一人では生きていけないし、他人軸で自分の価値を決めることは大切なことです。
それでも、人に依存しすぎたり、他人に自分の価値を見出そう、見出そうとすることは無意味で虚しいことだと感じます。


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