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置き去りにされた五輪の「そもそも」を問う

五輪開催が目前に迫ってきている。いつの間にか「開催するか否か」から、「観客を入れるか否か」に議論がシフトし、「開催」が前提で物事が推し進められている。

7月8日、菅首相は記者会見の中で、「オリンピック・パラリンピックには世界の人々の心をひとつにする力があります」と語っていたが、「ひとつ」とは何だろうか。朝令暮改の場当たり的な方針が、どれほど多くのしわ寄せとなり、振り回された人々をずたずたにしてきただろう。

6月に開かれた党首討論で、首相が突如として「たとえば東洋の魔女…」と57年前の五輪の思い出を語り始める場面もあったが、あの場で求められている役割は当時の五輪の「語り部」ではない。

五輪開催に対する批判を「感情的だ」とする声があるが、緊急事態宣言でもやる、とにかく何が何でもやる、精神論ばかりを並べてきたのはどちらだろうか。昨年3月、JOC理事の山口香氏が五輪延期について発言した際、山下泰裕会長は「みんなで力を尽くしている時にJOCの中から一個人の発言であっても、きわめて残念」と、「水をさすな」と言わんばかりの発言をしていた。

では、「どう力を尽くしているのか」を具体的に伝えるためにも、非公開にしてしまった理事会の透明化を進めるべきではないのだろうか。

今、東京五輪開催は、コロナ感染のリスクの問題で報じられることが殆どだ。ただそれ以前から指摘されてきた「そもそも」の問題が、積み残しになったままではないだろうか。「コンパクト五輪」を売りに招致をしたはずが、コロナ禍以前から経費は膨らみ、招致委員会の贈賄疑惑も有耶無耶にされたままだ。

委託費やその中の人件費の扱いなども、組織委員会が公開に後ろ向きであるほど、市民による検証は困難となるが、丸川珠代五輪担当大臣の「守秘義務で見せてもらえない資料がある」という答弁には思わずのけぞりそうになった。つまり、担当大臣でさえ、税金を含む予算を把握できない、というのだ。こうした理不尽な「力関係」がまかり通ること自体が、構造的ないびつさを物語っている。

予算と言えば、「トイレのような臭さ」との指摘を受けていたトライアスロン会場となるお台場の海は、透明度アップのため、1.2億円の事業費をかけてアサリが投入されたのだが、その「アサリ作戦」の効果も検証してほしいところだ。

また、そもそも東京五輪を巡っては、酷暑の問題が指摘され、マラソン会場は札幌となったが、それで暑さ問題が全て解決、一件落着となったわけではない。打ち水やら、涼しげな”イメージ”のあるアサガオやらの「対策」の他、国全体の時間を夏だけ早めるサマータイムの導入が検討されたことがあった。

確かにサマータイムが導入されている国はあるものの、睡眠時間や体調に支障をきたすとのリスクも指摘されていた。市民には、五輪を心待ちにしている人もいれば、反対している人まで、様々なスタンスの人々がいるが、サマータイムとなれば、否応なしに全国の人々が東京五輪に”巻き込まれて”いたことになる。

そもそも、この五輪が現場にどれほどのしわ寄せをもたらしてきたのかということが、置き去りになりがちではないだろうか。

2017年、新国立競技場建設の過酷な労働から、当時23歳だった男性が過労自殺に追い込まれている。短い工期でも人手が足りず、早朝5時に車で出勤して車内で仮眠、深夜0時過ぎに帰り、作業着のまま倒れ込むように眠る日々だったという。亡くなる前の2月の残業時間は、193時間だった。

記事にはこうある。

発注元の日本スポーツ振興センター(JSC)の関与が、工事の遅れに拍車をかけたとの証言もある。

証言をした現場監督によると、議員などの視察があるたびに、JSCの担当者が「午後に視察があるから現場を片付けておいて」などと指示。そのたびに工事が中断したと明かす。この現場監督は「国家事業とはいえ、こんなに作業が止まる現場は他では経験したことがなかった」と話す。

こうした実態が、「そんなこともあったよね」で、埋もれてしまうのだろうか。

またそもそも、この五輪開催は「復興五輪」を掲げていたのではないだろうか。招致が決まった当時、岩手県の仮設住宅を訪れた際に、一人暮らしの高齢の女性が「五輪なんて外国のことみたい」とぽつりと語っていたのを思い出す。

「復興五輪」を掲げるからには、亡くなった方々を悼み、その命と向き合いながら迎えるものであるのではないだろうか。ところが今、緊急事態宣言下の様々な命へのリスクが指摘されてもなお「なにがなんでも開催」を押し通されようとしている。その姿勢は、「復興五輪」という言葉にも反しているのではないだろうか。

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(2019年、高台から見た岩手県陸前高田市)

大会では紛争などで母国を離れた難民で結成する「難民選手団」を受け入れることが声高に掲げられている。もちろん、選手それぞれが大会に向けて重ねてきた努力は、否定されるものではない。

ただ、日本は難民受入に対し消極的な姿勢を続け、2019年の認定率は0.4%と、ほぼ門戸を閉ざした状態だ。その矛盾が置き去りになったままであるほか、そもそも難民含め、日本の入管行政は、外国人への人権侵害を繰り返してきた。

3月6日、名古屋入管でスリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなって4ヵ月が経つが、いまだ真相は明らかになっていない。鍵となる監視カメラのビデオ開示と再発防止の徹底を求め、有志での署名活動も始まっている。

ご遺族である妹のワヨミさん、ポールニマさんにインタビューをした際、彼女たちは繰り返し、「人間を人間として扱ってほしい」と訴えていた。入管の収容施設では、2007年に17人が亡くなり、うち5人は自殺だ。けれども入管がまっとうな検証をしたことはない。

収容にあたって司法の介在はなく、期間の上限なくいつまででも収容者を閉じ込めておける構造になっている。そもそも、「国際法違反にあたる」「拷問だ」と国際機関などから指摘されてきた収容の実態を放置し、人の命を奪っておきながら、五輪という表舞台では海外からの人々を「歓迎」しようとしているのだ。その異様さを受け入れてしまえば、今後も密室の中で、命が奪われ続けるだろう。

「安心、安全」「コロナに打ち勝った証」という威勢のいいスローガンと共に、「アスリートのために」が盛んに掲げられてきたが、ここまで人間を大切にできない政府や組織に、アスリートが大事にできるはずがない。これまで書いてきたことを踏まえれば、「アスリートのために」が建前でしかないと言わざるを得ないだろう。

その「アスリートのために」という建前のもの、「感動を届ける」という言葉が繰り返されてきたが、その「感動」を不都合を覆い隠すための道具にする権力者たちの動きに、私たちは敏感であるべきではないだろうか。

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