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ミステリー小説から学ぶ日系アメリカ人の歴史(LA編)

2冊の本との出会い

昨年6月、NYの日系人会関係者が主催するブックイベントで、ナオミヒラハラ氏の「CLARK AND DIVISION」及び「EVERGREEN」という2冊のミステリー小説と出会った。

日系人の歴史に関心のある方にはぜひおススメしたい2冊

これが実に面白い。日系人の歴史に関心がある方にはぜひおススメしたい2冊である。

もちろん私も、日系人たちが第二次大戦中に強制収容所に送られたことは知っていた。しかし、現在の良好な日米関係の下で米国で暮らす自分にとっては想像を絶する世界。当時の日系人は一体どんな風にアメリカで暮らしていたのだろうか。何を思い、何を感じ、どんな生活をしていたのだろうか。この2冊との出会いは、そんな私の日系人の歴史に対する関心や理解を高める重要なきっかけとなった。

まず、「CLARK AND DIVISION」を読み始めてまもなく、「CLARK AND DIVISION」とは、シカゴ中心部にある交差点かつ地下鉄の駅の名称ということが判明する。そして「マンザナー」という聞き慣れない地名や、当時の日系人の暮らしぶり、彼らに実際に降りかかった歴史が次々と登場する。

「あとがき」によると、作者のヒラハラさんは、当時の実在の組織や人物、実際の出来事について、オーラルヒストリーとしてまとめられた資料等を丹念にリサーチした上でこの本を執筆したという。そのせいか、「フィクション」といえども、当時の情景や人々の細やかな心の動きが非常にリアルに感じられた。読み進めながら、私自身、まるで自分のことのように体験しているような錯覚に囚われ、心は完全にタイムスリップしてしまった。

マンザナーからシカゴへ

主人公のアキはもともとLA郊外で家族と共に暮らしていたが、1942年、マンザナーというカリフォルニアの僻地に設置された強制収容所に一家ともども収容される。アキは日系2世でアメリカ生まれ。1世の両親とは異なり、アメリカの教育を受け、完全にアメリカナイズされて育ってきた。もちろん日本に行ったこともない。そんな2世たちはまだ若く、アメリカに忠誠心を示すことにも1世のような抵抗はなかった。英語もネイティブで、労働力としても期待される2世の若者を中心に、アメリカへの忠誠心が高く、能力や技術があると認められた者たちはいち早く強制収容所を脱して新たな生活を始めることが許された。アキの姉ローズもまさにそのケースで、アキや両親よりも先に強制収容所を出ることになったが、故郷のLAに戻ることは許されず、シカゴに行かねばならなかった。カリフォルニアで再び大規模な日本人コミュニティが作られることを恐れた当時の米政府は、日本人が殆どいない街に彼らを再配置することにしたのである。その結果、マンザナーを出た多くの日本人がシカゴに向かった。たしかに、全米日系人博物館の資料によると、戦前にシカゴに住んでいた日本人はたったの400人で、収容所を出た多くの日本人が「再配置」されたことで、その数は一時期約30,000人に達したとのことである。

しかし、いったんシカゴに移り住んだ日系人たちは、戦争が終わると再び長年住み慣れた故郷のカリフォルニアに戻っていった。そのため、多くの日系人にとってわずか3~4年の滞在となったシカゴでの経験は、これまであまり語られることがなかったようである。実際、周囲の日系人に尋ねてみても、マンザナーからシカゴに行った日系人の歴史について知らないケースが殆どであった。もちろん私もこの本を通じて初めて知ることになった。

作者のヒラハラさん自身、これまであまり語られなかったこのシカゴでの「数年間」に関心を抱き、思い切ってリサーチしてみたことが、この小説の執筆につながったという。実際彼女は、「Life after Manzanar」 という本も書いているが、ここにはアキやその友人たちのモデルとなったと思われる実在の人物たちのシカゴでの足跡が記されていた。

シカゴからLAへ

このように「CLARK AND DIVISION」には、まさにアキ一家の新天地シカゴでの奮闘ぶりが描かれているが、その後一家は、故郷のLAに戻ることになる。収容所に送られてから実に4年ぶりにLAに戻った彼らの物語が「EVERGREEN」である。「CLARK AND DIVISION」の衝撃的な結末の余韻に浸るのも束の間、アキがカリフォルニアに戻ってどのような人生を送るのか気になり、続編の「EVERGREEN」もすぐに読み始めた。

「EVERGREEN」もまた地名である。一家が4年ぶりに戻ってきたLAの街の様子や雰囲気はまるで一変していた。「我が家」の一軒家には見知らぬHakujin一家が住んでおり、リトルトーキョーには南部から移住してきた黒人が多く住み「ブロンズビル」と呼ばれるほどであった。そのような中で一家は、中心地から少し離れた「EVERGREEN」に、新たな「我が家」を何とか構えることができた。リトルトーキョーにも徐々に日本人が戻り、元の暮らしの再建が始まった。

リトルトーキョーにはそんな歴史があったのか。本を読みながらそのような気づきがあった。そうだ、リトルトーキョーに行ってみよう。リトルトーキョーにある全米日系人博物館(JANM)に行って改めて日系人の歴史を勉強してみよう。そう思い立ち、11月はじめの週末、LAに行くことにした。

いざ「EVERGREEN」聖地巡礼の旅へ

「CLARK AND DIVISION」もそうだが、「EVERGREEN」のハードカバーの表紙の裏側は、物語に登場する建物や地名が記された地図になっている。この地図を手掛かりに、いわゆる「聖地巡礼」をしてみようというのが今回の旅のテーマである。

EVERGREENの表紙の裏側にある地図

また、今回とても幸運なことに、伝手を辿って全米日系人博物館(JANM)のMさんに連絡してみたところ、彼女も偶然「EVERGREEN」を読んでいることが判明して意気投合。Mさんの車で共に「聖地巡礼」することになった。

まず足を運んだのが「JAPANESE HOSPITAL」。ボイルハイツというリトルトーキョーから少し離れた場所に実際にあった病院である。小説ではアキが看護婦見習いとして働いていた。

この病院が建てられたのは1929年。当時は日本人は酷く差別され、アメリカの病院で診療を受けることができなかった。そこで、カリフォルニア州の医師免許を持つタシロキクオと4人の日本人医師が病院を建てるべく、ボイルハイツの土地を購入したが、当時は1911年の日米条約により、市民権を持たない外国人は法人を設立することができないことになっており、州務長官により却下されてしまう。1927年にタシロはこの法律に異議を申し立て、最終的に連邦最高裁は条約の差別条項を違憲と認め、これによりボイルハイツに日本人病院を建設する道が開かれた。

筆者が訪ねたJAPANESE HOSPITALの入り口の様子。現在は老人ホームとして使用されている。
JAPANESE HOSPITAL 前には、1928年に日本人医師たちが連邦最高裁で勝訴したことが
記された標識が掲げられていた。

次に訪れたのが、「EVERGREEN CEMETERY」。小説ではベイブワタナベの墓もそこにあった。敷地内に入ると、墓石に刻まれた日本人の名前が次から次へと目に飛び込んでくる。出身地を刻んだ墓石もあり、私の出身地福岡県の住所が刻まれたものも多く見られた。Mさんによると、カリフォルニアに移民した日系人の中では、広島、山口、福岡の出身者が多かったという。

EVERGREEN墓地

そして中には、朝鮮系の名前が刻まれたものもあった。戦争中は朝鮮半島は日本の植民統治下にあり、朝鮮人といえども当時は「日本人」として米国に移民した人々もいたということなのだろうか?そんな日系移民と朝鮮系移民の歴史が交差する部分がにわかに気になり始めた。

その疑問をMさんにぶつけたところ、植民地時代に写真の交換のお見合いでいわゆる「写真花嫁」としてハワイに渡った朝鮮人女性のストーリーや、第二次大戦中に日系2世を中心に構成された442連隊戦闘団第100歩兵大隊に参加した唯一の朝鮮系アメリカ人ヨンオク・キムの存在を教えてくれた。Mさんによると、ヨンオク・キムが第100歩兵大隊に参加した際、大隊長は、朝鮮人と日系人との間に摩擦が生じることを懸念し、彼に別の部隊へ異動することを打診したが、「ここには日本人も朝鮮人もいません。我々は皆アメリカ人です」として異動を拒んだという。そんな朝鮮人がいたのか、と驚くと共に、植民地時代に日本人と朝鮮人の歴史がアメリカを舞台に複雑に絡み合っていた事実に気づかされた瞬間でもあった。日本人としてはどうしても日系人の歴史の方にまずは目が向くが、その裏側には、アメリカで独立運動を繰り広げていた朝鮮人や、日本人でも朝鮮人でもなくアメリカ人として生きていた人々の歴史があったのである。この部分についてもっと知りたい、調べてみたいと思った。

Evergreen Av.

墓地を出ると「Evergreen Av」の標識があった。「EVERGREEN」はまさにこの辺りのエリアの名称であり、小説の中のアキも墓地の近くを歩いてJapanese Hospitalに通勤していた。アキのように当時この風景をみながら病院に通勤した日系人がいたのだろうか、などと思いながら墓地を後にした。

「Nisei Baptist Church」にも行ってみた。小説の中では、アキのシカゴ時代からの友人ハンマーがこの教会で讃美歌を歌ったり清掃活動を行っていた。「CLARK AND DIVISION」ではかなりアウトローでやんちゃなキャラクターとして描かれていたハンマーは、「EVER GREEN」では一転、教会の活動を通じて改心して更生し、庭師を目指す若者として登場する。

当時のNisei Baptist Churchの建物 

教会の建物は当時のままの姿で残っていたが、現在はヒスパニック系の教会になっていた。その向いの敷地に現在の「Japanese Baptist Church」があった。

アキの夫であるアートが務める羅府新報のビルも外観だけだが見ることができた。ヒラハラさんの「あとがき」によると、小説の中にアートの同僚として登場する何人かの記者の名前は実在の記者からとったものだという。ヒラハラさん自身も羅府新報に勤めていただけあって、リトルトーキョーの復興の様子や当時の日系人が抱える問題、人権回復のための活動等、小説の中の記者たちの視点や議論の描写は臨場感があふれ、非常に読み応えのある内容となっている。

現在の羅府新報ビル入口の様子

アートとアキが羅府新報の記者らとよく会食していたリトルトーキョーの中華料理レストランのビルもそのまま残っていた。彼らが注文する定番メニューが「CHOP SUEY」。今でも「CHOP SUEY」というネオンの看板が掲げられており、「CHOP SUEY」を食べられるのかと期待したが、内部に中華料理レストランを見つけることはできなかった。

後で調べたところ、ここに「FAR EAST」という中華料理店が1935年に開業し、収容所から戻った日系人たちがお金がない中でもツケでたらふく食べさせてもらえる有難いレストランとして愛されていたという。残念ながら2008年に閉店し、現在は「FAR EAST LOUNGE」 というコミュニティセンターとして使われているが、そのアイコニックなネオンの看板はそのまま残されており、外観は当時の雰囲気を醸し出していた。

羅府新報の記者らの語らいの場となっていた中華料理店「FAR EAST CAFE」の建物

この「FAR EAST」しかり、当時の外観のままで残されている建物が多いことにも驚いた。Mさんによると、全てを壊して新しい建物に建て替えると、建物の面積等が変わることで、税金や規制の内容も全て変わってしまうため、建物はそのままにして内装のみ新しくする例が多いとのことであった。日本ではかつての建物は跡形もなく更地になっていたり、別の新たなビルが建っていて、確認できるのは「~跡」という標識のみ、ということも多いが、LAではこのように100年近く前に建てられた建物の外観がそのまま残っているケースが多く、当時の情景を想像する上ではとても有難かった。

今回宿泊したミヤコホテルの部屋から撮影したリトルトーキョーの建物。おそらく建物自体は当時のもののままとみられる。

旅のハイライトは「全米日系人博物館」

このように、今回の旅では、小説「EVERGREEN」の世界を通じて、LAのリトルトーキョー周辺の歴史を学ぶことができたが、ハイライトは何と言っても全米日系人博物館(JANM)である。

私は学生時代の1995年2月に1か月間だけLAに語学留学したことがあり、その際にも全米日系博物館を訪れていた。しかし当時LAといえばハリウッドや「ビバリーヒルズ高校白書」くらいの知識しかなかった10代の若者は、「強制収容所」の歴史についてなかなか呑み込むことができなかった。当時一体何があったんだろう、という漠然とした疑問を抱きながらも、英語力のなさも相俟って、いまいちきちんと理解ができないままに博物館を後にしたことを覚えている。今思うとなんと無知な学生だったのだろう、と恥ずかしい限りだが、その後何十年も経ち、大人になって仕事でアメリカに赴任し、日系アメリカ人の同僚とも出会い、歴史について考える機会も多くなった今、改めて博物館を訪問し、今度こそじっくり学んでみようと思ったのである。しかも今回ヒラハラさんの本の世界にどっぷりはまった自分にとって、当時の日系人が経験した歴史はもはや他人事には思えず、全体的な歴史の流れを学ぶとともに、これまで断片的に得られた知識や情報を整理したかった。そのような私の思いに全米日系博物館の常設展は十分に応えてくれた。

常設展コーナーに入ってすぐ目に入る日系人が使用したスーツケースの山。

しかも今回はMさんの紹介で、たまたまその日に開催されていた、日系人のオーラルヒストリーの大家であるアーサー・A・ハンセンカリフォルニア州立大学フラトン校名誉教授の功績を称えるイベントにも参加することができた。ハンセン教授は長年にわたり多くの日系人にインタビューし、日系人が辿った歴史を丁寧に編纂してきた。その温厚で誠実な人柄で、多くの日系人や関係者から愛されていることも、イベントに集まった人々との会話から窺い知ることができた。このイベントを通じて「オーラルヒストリー」という歴史研究の手法に出会えたことも大きな収穫であった。

アーサー・A・ハンセン教授も登壇した。

さらに嬉しいことに、このイベントには今回の旅のきっかけとなった2冊の本の著者であるヒラハラさんも出席していた。私が「EVERGREEN」の聖地巡礼のためにLAに来たと告げるととても喜んでくれた。上述の「Life after Manzanar」はまさにヒラハラさんがハンセン教授と共に執筆した本でもあった。博物館ショップでさっそくこの「Life after Manzanar」を購入した。

アーサー・A・ハンセン教授のイベントに登壇したヒラハラ氏。

次の目的地はシカゴ!

そして、私を次の巡礼の旅に誘う出会いもあった。このイベントには、シカゴ日系人歴史協会のDさんも参加していたのである。ヒラハラさんは、「CLARK AND DIVIDION」の「あとがき」で、日系人のシカゴへの「再配置」の歴史を学ぶ上で参考になる資料として、「the Japanese American National Museum's REgenerations Oral History Project: Rebuilding Japanese American Families, Communities, and Civil Rights in the Resettlement Era, helmed by Arthur A. Hansen and Darcie Iki」を挙げているがが、このシカゴでのインタビューは、まさにDさんがアレンジしたものであったらしい。この資料にはオンラインでアクセスすることが可能だが、実際にDさんと日系人たちのインタビューの記録が収録されている。

Dさんに今回の旅の経緯を説明したところ、とても喜んでくれ、シカゴでの再会を約束してくれた。これはもうシカゴに行くしかない。次回は、「CLARK AND DIVISION」の表紙裏の地図を手に、アキやローズが暮らした街を歩きながら、シカゴの日系人の歴史について学んでみよう。今回のLAの旅が、このようなワクワクする出会いで締めくくられるとは想像もしなかった。次のシカゴ編の執筆が今から楽しみだ。

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