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私は「誰かのため」の料理をやめた。静かに、家父長制に抵抗していた、30歳女。

数年前に「妻」になってから、1年前に「母」になってから、家事や料理がとにかく好きになれなかった。「しなければいけない」と思えば思うほど、より一層鬱陶しく感じるようになった。

特に料理が面倒だ。食べることは一瞬なのに、料理という過程には時間がかかる。

さらには、自分の食べたいもののためには、料理はこういうものだと思えるのに、夫が食べたいだろうと思う料理を作るときには、もっと負担に感じた。

だから「私はこれを作るけど、あなたは好きにしてね」なんてやり方をして、気が向くときだけ夫の分を作ったり。友人に言うと「え、自分の分だけなの?」と面白いことを聞いたと言わんばかりの顔で聞き返された。

多くの女性が、家族のために、料理を作り続けられることが、私には不思議だった。

こんな私も、ハロウィンやクリスマスやお祝いのときには、料理に至極前向きになる。数日前や数週間前からメニューを考えて、1日前にはケーキを焼き始める。新しいパーティーメニューに挑戦してみようなんて気持ちになったり…

決して料理が嫌いなわけではないのだと気付き、さらに落ちこむ。自分のやりたいことのためなら、頑張れるのに、家族のためには頑張れないということだ。
こんな自分を認めてあげようと思う自分もいれば、他の多くの女性が「家族のためにしてあげたい」と思うのに、何故こんなにも心が狭いんだろうと落ち込むときもあった。

そんな自分に、答えをくれたのが中村祐子著書「マザリング 現代の母なる場所」である。

現代社会の中で「母」という言葉には、家父長制に由来するある種の烙印が押されている。自己犠牲、生産性、社会への貢献、安定感、保護膜……「母」と言った途端、社会的な構造の問題にからめとられてしまう…(略)

マザリング 現代の母なる場所

そうか、私はずっと、抵抗していたのだ。
社会が求めてくる「妻」や「母」という役割に、静かに、家の中で抵抗していたのだ。

「母」と言った瞬間、「妻」と言った瞬間、自己を犠牲にし、家族の健康をケアし、時間をかけて料理を作り、皿洗いをするような、そんな烙印を押されぬように、必死に抵抗していた。

「母の愛情」と言えば、何故か「手作りの母親の料理」や「母の味」なんて言ったりする。もちろん、母親の手料理が愛されていること、家に帰れば母親の料理が待っていることは、とても素晴らしいことである。しかし「ポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言われるくらい、母親が料理を丁寧にすることに対して、異常に社会が執着していると感じていた。

父親の手作りに、社会は執着しているだろうか?
夜ご飯にマクドナルドを買ってきた父親は手抜きだと思われるだろうか。仕事終わりにマクドナルドを買ってきてくれた楽しいパパ、なんて感じたりする。
一方母親が同じことをすると、時間がなかった、今日は手抜き、なんて言葉が思い浮かぶ。この非対称性はなんなのか。

私は、社会が求めてくる「妻」や「母」とは、真逆の女性でいたかったのだ。私の大切な人に、夫に、自分がどのような人間であるか、どんな考えを持つのか、体現したかったのだ。

女は、妻は、母は、自己を犠牲にしない。家族のケアばかりをするわけではない。犠牲にしなくても、ケアをしなくても、家はパートナーと2人の力によって維持されるべきであると。今まで、男がそうしてきたように、女もそうする権利があると、家の中で示したかった。

「社会」は、2023年になっても、家父長制を維持し続けているが、「家の中」では、その悪しき馬鹿げた幻想に抵抗したかった。
家の中で、社会に必死に抵抗することで、「妻」や「母」の烙印を押されることから、逃れようとしていた。

「母」が忌避されるような時代のなかで、母を再発見し、あらためてその孤独や虚無や喜びの総量を、この社会のなかに位置づけたい。

マザリング 現代の母なる場所

「母」を再定義する、この本に出会って初めて、私は胸を張って「母」でいいのだと思うことができた。(この本では"Mothering"と表している。この本について感じたことは今後もっと書きたいことがあるため、ここでは省略する)

人を想うこと、共感、守りたいという感情、「誰か」でなくその誰かの大切な人や家族を思い浮かべること、現代で希薄となってしまった、この母性的な感情は、性別に関わらず、誰しもが持つものであることを知った。
そしてこの母性的な感情が、冷え切った社会を世界を変える力があると思えたとき、「母」であることが誇らしくなった。

「母である私」が受け入れられるようになると、料理への愛着が、ここに書かれている料理という行為の本質が、真っ直ぐに私の身体に落ちてきた。

料理とは一つの自然であると、子どもを育てながら台所に立つことが多くなった私は毎日のように思う。
近代的な部屋の中でできる、小さな、ひそやかな自然への回帰であると。

マザリング 現代の母なる場所

現代社会が求める「母」、つまり家父長制の中に存在する「母」の象徴的な行為や愛情表現が「料理」だと感じていたからこそ、私は家族のためや誰かのための料理が億劫だったのだ。

料理とは、ただお腹を満たすためのものではない。生命を感じる行為であり、自分が生きるための行為でもある。「誰かのため」でなく、「自分のため」の行為なのだ。

それは子どもが母乳を口にし、懸命に生きようとする姿と変わらない。精一杯光合成して大きくなった野菜たちの生命力、血の通っている動物たちのことを想像し、自分がその生命によって生かされていることを感じる行為が、料理なのだと。

「野菜」や「肉」や「卵」のような無機質な単語ではなく、そこにいたるまでの過程を想像しながら、共感しながら料理すること。それが「生きる」を知ることなのだ。

だから私は自分が「生きている」を知るために、感じるために、料理をしたい。私たちが自然の一部であることを忘れないために、料理をしたい。誰かのためでなく、自分の「生きる」を感じるために、料理をする。

それを子どもにも伝えたい。私たちの心臓は、心拍は、誰かの命によって動いているんだということを教えてあげたい。

忙しい現代社会において、そんな風に「生きる行為」が「面倒なタスク」へと変貌していないだろうか。何気ない日常の、その行動の本質はなんだろうか。美しい「生きる」を日常から拾い上げ、今目の前にある時間を愛でてゆきたい。


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