リア充でなくてもいい。死んでいない。それで十分なんじゃないの?
「生きる」ということは、自分で選択したものではない。実は能動的なものではなくただ受け入れただけ。半ば強制的に与えられた義務に近いものなのではないかと思うことがある。(あくまでも日本で生きる私たちの話です。)
あの裂け目から産み落とされた命は誰のもの?
一人で生きていけない幼いうちは、やはり親のものになるのか…?
生まれ落ちた後、半日でも放置されれば死んでしまう。
赤ちゃんのうちは、自らの意思で生きるという選択肢を与えられていなかった。同時に死ぬという選択肢も与えられていない。全ては親とDNAの都合次第。親と持って生まれたDNAに生死がかかっていた。
親に"生かされて"いた代謝するだけの生命だった。
やがで自分の手で食べ、自分の足で歩き、自分で生活できるようになる。
そこでやっとこの命は自分の物になるのだろうか…
いや、そんなことはない。
「早く死ぬことは残念だ」
「自殺はよくない」
「生きることは素晴らしい」
そんな暗黙の了解的価値観(宗教)に圧迫される世界なのだ。
生きることが楽しいのならそれでかまわない。
しかし
生きるのが辛くても、死を選ぶという選択はできない。どんなにつらくても生きるのが正しくて死ぬのは間違いだとされる。
精神的な苦しみもそうだが、肉体的な苦しみさえも解放されることが許されない。
治る見込みのない、いつか死ぬであろう痛くてたまらない難病でも、その苦痛を最大限味わってから逝かなければならない。
なぜなら
「早く死ぬことは残念だ」から
「生きることは素晴らしい」から
脳と体がバグって もはやかつての面影すらない、自分が誰かもわからなくなって体もしっかり動かない。その割に暴言と暴力を振るう。
そんな人を介護する方の地獄の日々を誰が救ってあげるのだろう。
「長期間にわたる介護を一人で負担し、精神的に追い詰められた被告
救えるのはただ1人しかいない
そう
それは
死神
人間界では
死ぬことは 悪 なのだから。
人間が個人の意思で死を選択したり与えることはできない。
だから、死神に祈るしかない。
清らかに
合法的に
名誉ある
自死(安楽死)を選べない
尊厳ある死を迎えられない
「死ねない」
「死」を選択できない
"できるだけたくさん納税してもらうための国家の大事な人員なのだから"
でもそんなふうに何もかも選べない、やらされている人生はなんだかもういやだと私は思った。
ならば
「死なない」という選択肢を自分の意思で決めて選び、納得してそして覚悟を決めて暮らしていこうと思った。
何もかもやらされてる人生はもう嫌なんだ。
もう、自分の意思できめたい
これからは、「責任」という重い荷物を背負って、「自由」という舵取りを手に入れて自分の意思で歩いていこうと思った。
頑張って生きなくていい
死ななければそれでいい
幸せにならなくても
リア充にならなくても大丈夫
ただ、のうのうとずる賢く生き延びればいい
それが私にとっての達成なのだ。
だからあなたも、
今、死んでいない
そんな自分を大いに褒めてあげて。
それは自分で選択した道なのだから
それで充分なんじゃないの?
そう思う。
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