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14年振りに住んでた家へ行き、「"ないこと"にしてた自分」を確認した

"生きているはずだけど、生きてない気がした"

ずっと、この感覚が消えなかった。

"心の穴"ともいうのだろうか、
"見に覚えのない喪失感"といったところだ。


確かに存在はしているのだけど、心の中にポッカリと穴が空いている感覚だった。どうしようもない虚しさだった。対処しようとしてもどうにもならない、虚無感だった。

この虚無感故にか、子供の頃住んでいた場所(正確には"思い出"ですね)に思いを馳せたり、懐かしさに囚われることも多々あった。

まさに、「今を生きられていない」といった感覚だった。

・・・

先日、小2〜小5まで住んでいた場所である練馬区へ行ってみた。11歳以来の14年ぶりだった。
「確かに"生きていた"場所へ行きたい」とずっと思っていた。

「いつかは、行こう行こう」と何かの節目に思いながらも訪ねていない場所だった。

当たり前に聞こえるかも知れないが、「私は、"生きてた"のか」と思った。あまりにも今より遥かに"生きていた"ので、今の私には衝撃だった。

きっと、誰しもある感覚ではないだろうか。子供の頃というのは、そういう不思議な時期であり、ついその懐かしさに囚われてしまう瞬間というのがある。


─懐かしい景色を眺めて、気づいたことがある。

意外にも、脳裏に焼き付いていたのは、家から学校へ行く途中のなんの変哲もない電柱に貼られている交通安全のポスターのようなものだったりすることだ。
あとは、よく通った家の周辺の木や普通の通りだったりする。

特別な場所でなく、日常に"生きていた"過去があったことに気づいた。なんだか、そんな日々が尊くて、思い出す度に涙していた。

ただ、私はこの懐かしい風景や人に囲われて生きてこれなかったことが悲しかっただけだった。それが、今になって感じ損ねた感情として蘇ってきて、涙した。
友達の中の自分が消えることは、自分の大部分が死ぬという感覚だった。

増して子供時代に自分ではどうしようもできない理不尽に思える"引っ越し"によって、人の心の中にいたはずの自分が消えていく感覚だったから、それは辛い。

・・・

子供の頃の世界は、学校がすべてだった。

学校の友達や遊び場が世界の全てで、当然まだまだ世界のことは知らなかった。
幸か不幸か、色々知りすぎた今の自分には、"ないもの"を渇望していた。やはり子供の頃の自分の姿が"渇望していたものそのもの"だった。

11歳頃の練馬区で出会えた友達が、いつまでも心に残っていた。
あの頃は、心がちゃんと動いていて、"生きていた"。

練馬区から今いる埼玉県の田舎に引っ越して来たからは、笑うことが少なくなっていった気がする。人と深く関わることを避け、心やマインドをコントロールすることが長けてしまった気がした。
寂しい心や喪失感から目を背け、幼少期の自分ごと"ないこと"にしていた。

世界の全てだった練馬区の友達や、懐かしい学校や公園や横断歩道や電柱のすべてが自分の周りから無くなったことを境に自分が、変わってしまった気がしたし、何より元には戻れないから幸せな記憶は、頭の中から遠ざけておきたかった。


きっと、そこに自分の感じ損ねた感情があった。

田舎で生まれ育った同級生ばかり学校へ引っ越してからというものの、自分の中に抱えた喪失感を嘆くことができず、「もし転校していなかったら」というありもしない世界を考え続ける日々だった。


「懐かしい人や景色に囲われて生きていたら、」とやはり渇望してしまう自分はいた。

現に、今の私が何かに愛着を持ちづらかったり、精神を病んでしまった過去も、今節々で生きづらさを感じるのも、幼少期の生い立ちが原因ではあるとは思うのと、実際に因果の関係が成り立っていることなのだろうとは思う。

そして、「懐かしい人や景色に囲われて生きている」という人にはその人なりの苦悩があるのも分かる。

しかし、人間という生き物は、常に自分の欠乏に嘆き、渇望している生き物なのだろう。
それは、歴史を見ても、そう感じる瞬間はよくある。

「今ないものに目が向き、今あるものに目を向けられない」のは"世の常"のようなものなのではないだろうか。

どんな環境にいても、不満というものはあり、本当に平行線の現状維持なんて存在しない。

だから、私たちはきっと、
「その失敗が、幼少期が原因で引き起こされている結果だ。」という認識があるならそのままいいのだと思う。その不満も、常に欠乏を嘆き渇望する生き物なのだから、当然のことだ。

本当に哀しいのは、「一生ないものに目を向け続けたまま、この世から去ること」ではないだろうか。

・・・

これから、何か良いことが起こるとしたら、「過去のせいで引き起こされた結果かもしれないけど、目の前の今の嬉しい出来事は、その"結果"がなければ引き起こされなかった。」と思うと、途端に少し尊く見えてくるのではないだろうか。

「辛いことがあれば、必ずいいことがある」と言うつもりは毛頭無く、私が言いたいのは「過去と今に繋がりを感じられれば、"今"を感じられて、生きられるのでは」ということだ。

私のように、過去を"なかったこと"にしていた人も、過去にいた場所に足を運んだりして、過去を"あったこと"に変えられるよう動いてみるのも良いのではないだろうか。

過去と今の繋がりを感じられたら、自分の心が少し豊かになる。繋がりを感じられなかったときは、自ら感じられることが少なかったときに比べ、何かを感じとろうとするはず。

きっと、生きる中で、過去と今を繋げるための"何か"を自分で探して行くものなのだろう。むしろ、その探す過程が人生そのものなんじゃないかと思ったりもする。


きっと人生は、新たな結果が引き起こされたら、結果が原因にかわるという連続なんじゃないだろうか。

つまりは、未来が過去を変えていくということだ。

それを体験したいなら、生きるしかない。
死んだらチャンス自体なくなるが、とりあえず生きてるだけでチャンスはある。


やはりどうしても、あの時を"生きていた"と感じるが、今も"生きている"と感じる瞬間がないわけではない。常時続くわけでもないが、そういう瞬間を感じられたらいいなと思う。

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