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何者でもなくなるということ

時折、こんな問を自問している人を見かけることがある。

「もし、手足がなくなったら自分のことを愛せるだろうか?」
「もし、自分が何者でなくなっても恋人は自分を好きなのだろうか?」
「もし、今の肩書や地位を含め何者でもなくなったら自分を愛せるのか?」

その人は、こういったことを脳内でシミュレーションしてみていた。

何者でもなくなった私から言えば、その問の答えは、「そうなってみないとわからない」だ。

"何者でもなくなる"ということは、
一言で言えば「果たしてこの社会で生きていけるのだろうか」と肉体的・心理的にも生存危機を感じることに等しいと私は感じる。

もっと細かく言えば
生きる術を教えてくれていた仲間や上司がいない元で生きるということであり
自分の生きる指針や規範が全て不確かなものに感じ、すべてを疑うことであり
目に映る世界の全てに信用を置けなくなることだと思うからだ。

絶望的な状態から抜け出せたのは、何者でもなくなった後の巡り合わせという名の御縁のみだった。
その縁無くして、私は私を掬うことかできなかった。

しかしながら、その縁とは巡り合わされる場合もあれば巡り合わない場合もあるので、「その状況になってみないとわからない」と心底感じる。

何者でもなくなったほうが、肩の力が抜けて生きていて楽しくなった。
一度何者でもなくなれば、何者であろうがなかろうが、どっちだって良くなる。

何者かになることが生きる上で当然で、生存戦略になっている世界で何者でもなくなった状態で生きるのは息苦しすぎた。だから逃げた。

「別に何かにならなくても楽しかったら何でもいいでしょ!」と今の自分は思う👏🏻
何かにならなきゃいけない焦燥感や恐れは、昔のようには感じなくなった。

なぜなら、本来なら何者であろうがなかろうが生きていけるはずだから。
何者かにならないと生きていけない社会は虚しくて仕方ない。

どうせ死ぬんだし、単純に楽しく好奇心揺さぶられることが最大に多い人生がいい!

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