見出し画像

失恋、ボブ・ディラン、村上春樹 [日記と短歌]24,2,13


翼なき背中で雨を受けとめた君はあの夜天使だったよ/夏野ネコ


今日はとりとめなく、短歌における比喩と私の失恋と雨の日の少年についての話です。意味わかんないですね。でもよろしければお付き合い下さい。

最近、歌の構造や比喩の後ろにある思いなどに意識を向けて歌集を読み始めたせいか、この比喩や象徴化の部分で色々と学びと発見がある気がしてます。とてもわかりにくい比喩もあれば、どストレートなもの、抽象度の高いもの、ファンタジックなもの、いやむしろマジックリアリズムでは?みたいな表現もあり、短歌において喩えに託された意味の解読は面白いぞ、と今更ながらほほうほほうと感じているのです。

んで、このような表現について考えているうち、以前読んだ村上春樹の小説、たしか「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だったような気がしてますが、その中でとても印象に残る比喩があったのを思い出しました。それはボブ・ディランの歌についてで、「雨の日に窓の外を眺めている少年のような」的に書かれていたんですよね。うう、かっこいい。

うろ覚えなので正確じゃないかもですが、ともあれ、このいかした比喩表現を通じてちっとも知らないボブ・ディランという歌手に興味を持ってしまい、ベスト盤のCDを手に入れて当時よく聴いていました。うん、本当によく聴いていたんだ、休日なんか朝から晩まで聴いていたと思う。

というのも実はその頃わりとでかい失恋をやらかし、あまりの悲しみに藁をも掴む気持ちで何かに縋りたかったそこにあったのがボブ・ディランのCDだったのですね。
あぁもう、聴きまくりました。あの春樹文体で語られる「雨の日の少年」に全力で悲しみを託し、聴き続けていました。
いやぁ、思い返すに相当こじらせてましたね。

そんな聴き方なのでボブ・ディランその人についてはまったく詳しくなく、村上春樹の小説に紐づけられた当時の思い入れだけがあるという状態ですいまだに。ごめんよディラン。

でも、と思います。
あの時、いつかやむかもしれない雨をただ隣で一緒に見てくれる人が欲しくて、一方でずっと降っていて欲しくもあって、それでも否応なく過ぎていく時に、時代は変わるのさ、と訥々歌うボブ・ディランを聴きながら私と過ごしてくれたあの幻の雨の日の少年。

村上春樹の本の中から生まれた彼は私の、たぶん恩人です。だから今後も比喩というものについて考えるとき、ディランの歌と共に彼のことがよぎると思います。なんというか、象徴のようになってしまった。

だからってわけじゃないけど、せっかく思い出したのでお礼をいいましょう。
あの時はありがとう。また一緒にボブ・ディラン聴けたらいいな。

(冒頭歌ちょっとなおしました)

この記事が参加している募集

今日の短歌

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?