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書くこと、公開すること|ネットはもう秘密基地ではない

以前、物書き仲間の方から「あなたにとって物書きとは何ですか?」と聞かれたことがあった。

「あんまり考えたことないです。考えたことを書いているだけなのです」

わたしはそう答えた。

わたしは文章を書くのが仕事だが、書きたいことを書いてお金をもらっているわけではない。わたしが主な生業としているのは、情報をまとめて記事にすることなので、自己表現でお金を稼ぐこととは違う。求められる業務をこなして対価をもらっているのだ……と、

このことを考えていたら、わたしはずっと部屋を片付けていただけなんだと知った。発信なんかじゃなくて、掃除してたんだなぁと思った。

頭の中の掃除・整理整頓

何かを「書く」こととは、頭の中の掃除であり、整理整頓のような作業だ。

わたしの頭は常に過活動で、思考があっちこっちに飛んだり、連想ゲームでいろいろなところに行ってしまう。だからときどき整理して、要らないゴミを出して、スッキリ整った状態にしなければならない。

以前「考えがあふれて止まらないから文章を書いている」と言っていたこともあったのだけれど、それは今もまったく変わっていない。

とくに、わたしは拾い物が多い。人との会話、本の内容、日常生活、子育て、目に飛び込んでくる風景、耳にする音楽、映画。

いろんなものの中から、拾い物をしているのだ。

日常には、要らないものも、大事なものも雑多に落ちている。尖った瓶の破片もあれば、やわらかくて気持ちのいいハンカチみたいなもの、なんの呪文かと思うようなメモ紙とか、ずっとずっと探していたジグソーパズルの最後の1ピースを拾うこともある。

でもいつもは、頭の中にそれが全部雑多に落ちているような散らかりようだ。そこで「あぁ、ここをもう少し掃除したいな」とか「ここが整理されればまた少し快適になるかもしれない」という構想が湧いてくる。

そういうときに、文章を書いているような気がする。

掃除というのは「はやくやりなさい」「3日後までにきれいにしておいてください」と言われると、この上なくやる気が失せる。子どものころから、片づけなさいと言われると、わたしは突如無表情になって生気を失ったような気もする。

でも「あぁ!もういい加減掃除したい」「整理整頓しないと始まらない!」という自発的な欲求が襲ってくると、夜中までかかって掃除や片づけをしたものだ。

話して整理することと、書いて整理すること

その一方で、人と話すことでも思考が整理されたり、新しいものを発掘できたりする。

暇さえあれば文章に向き合っているわけではなくて、その前段階として「人と話す」という作業も必要なのだ。

話して整理できることと、書いて整理することは別物だ。

よく、会話はキャッチボールだという。ボールを受け取ったときの「感覚」で何かを発見したり、認識したりするのだと思う。

今のは思いのほか強いとか、胸のところにバシッとはまったとか、ずっしり重たいとか、軽くて受け取りやすいとか。今のは右側に寄っていたとか、あともう少し投げ合えば何か感じ取れるかも……とか。そういう感じ。

書く作業は、自分の「今、ここにある内面」を表現する作業。

一方、「話す」のは、相手が投げたものに対する反応を確かめる作業。比較や対比などをして、発想を広げていく。

でも、わたしは人と話すときに「ボールを正しくキャッチし、返せているかどうか」というところに視点を向けてしまうことがある。

「ボールが滞りなく行ったり来たりできるように」ということばかりに意識がいって、感覚を体や心で感じることがおろそかになるのだ。

相手が拾いやすいようなボールを投げるために自分はどんなボールを投げるのか、ということばかり考えてしまうこともある。

そういう状況だと、わたしは相手からどんなボールを受け取ったのかわからないし、自分がどんなボールを返したいのかもわからない。

なのに、そこで繰り広げられた会話はすべて自分の気持ちであり、事実だと思い込んでしまうこともある。

話して、書いて、話して、書いてを繰り返し分の気持ちや意思を確かめていくのだ。

書いたものは、片付いた部屋

そして最近は、ネット上に公開する記事はすべて「片付いた部屋」であり、誰かを招き入れる場所と考えるようになった。

思考の整理整頓は確かに大事な作業なのだけれど、それを全世界に公開していいのかどうかは考える必要があると思う。

部屋の片づけは、何度や引き出しの中を全部出して整理する。ごみや不用品、掃除用具でごった返した乱雑な部屋に、来客を通すことはない。

今までは、人と実際に対面する現実の世界がメインで、ネットは隠れた場所だった。誰にも言えない心の叫びやつぶやきは、ありのままであればあるほど貴重な価値を持った。

でも、今はどうだろう。現代は状況が違う。

現実とネットの大きな区別はなくなり、今やネットを駆使しないと生き残れない。たとえ匿名であっても、ネット上に放たれた記事やSNS投稿が、世の中に大きな影響を与えたり、社会の風潮を作り出すようになった。もう、ネットは昔のような「隠れ家」でも「秘密基地」でもない。時代は変わったんだなぁと、しみじみ思う。

書くことと、公開することは目的が違う。書くことは自分のためにやること。公開することは、人のためにやることではないかな。この区別をしっかりもって、書いて公開することに一定のルールを作る必要がある。

記事はすべて、読者像や、読了後のゴールを決めて設計する。しかし自分の文章は何も決めないまま、思考の垂れ流しをしているだけ。もちろんそれが「趣味」なんだけれど、わたしは自分の文章を「趣味だから適当でいい」とは思っていないのだろう。

趣味の文章であっても、きちんと結果を見据えて設計することで「求められるもの」に変わるし、そのヒット率を上げられるのだろう。「考えたことを書いているだけ」と答えたけれど、それだけじゃないんだなぁと思う。

自己表現を仕事にできないのは、自分の人間性が未熟だからとか、スキルや魅力がないからだと考えていたけれど、それだけではないように思う。考えが実に浅かった。

公開するものは、掃除や整理整頓の過程ではなく、ひとつの結果として提示したい。自分の文章を載せる媒体は「人を招き入れる部屋」にしようと決めた。

もう、ネットが秘密基地だった時代は終わったのである。

(※2021年に書き途中だったものに加筆して公開しています)

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