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時空がゆがむほどの「よろこび」

洗面台の鏡の前で、わたしは茫然としていた。目の前にいる人は、誰なんだろう。わたしの髪の毛を梳かしているこの人は、いったいどこから来たんだろう。

14歳になるわたしの息子は、少し前から自分の髪型のことで頭を悩ませていた。いっぽん一本が太くて硬い、クセのある髪。ツヤがなくて、広がりやすい。ちなみに、うちの家族は全員同じ髪質だ。

若い男子の流行りは、さらさらのボブカット。マッシュの子もいれば、センター分けにしてさわやかな雰囲気にしている子もいる。

一方、息子の髪は硬くてごわごわしている。学校では「髪型がダサい」といって、いじられているんだとか。

さらさらの髪の毛ってうらやましい。ツヤがあって、振り向くと自然になびくような髪。長さが短くても、しなやかな髪質とそうでない髪質の差ははっきりとわかるものである。

その悩みはよくわかる。わたしも、髪の毛の扱い方には困っているのだ。

しかも、わたし自身が手入れを面倒くさがる人間なので、とくに参考になるアドバイスもできずにいた。夫に息子のそんなエピソードを話しては「思春期は髪の毛いじりあるよね」なんて言い合う程度だった。

当の息子は、仲のよい女子の友達に相談し、おすすめのオイルやシャンプーから髪の毛の洗い方、髪の毛の梳かし方、ドライヤーの当て方まで完璧にレクチャーを受けてきたようだ。

「持つべきものは女子の友達だねぇ」なんて言い、そのうちわたしもそのやり方を参考にするようになった。

数日後、わたしが風呂上りに髪の毛を乾かしているところに息子がスッと通りかかった。

「ねぇ、髪が濡れた状態で梳かしていいんだっけ?」

何気なく聞くと息子は、わたしの手からブラシを奪い、わたしの髪の毛を梳かしはじめた。

「…………」

わたしも息子も、黙ったまま。
たった数秒だと思うが、とても長い時間に思えた。

「ここのね、うなじの毛も、こうやってね。梳かすといいんだよ」

真剣な顔して、わたしの髪の毛を丁寧に丁寧に梳かす。

わたしはそのとき、目の前にいる人が誰なのか一瞬わからなくなった。

今何が起きているのかわからなくなった。

この人、誰なんだろう。

どこから来たんだろう。

いつのまに、こんなに大きくなったんだろう。

なんで、こんなに優しい人になったんだろう。

なんだか、心当たりがない。

自分よりも背の高い、自分によく似た人が、髪の毛をいっしょうけんめい梳いてくれている。

「……よし、オッケー」

さも美容師かのような目つきと口ぶりで、息子は言った。

あのとき、今自分に何が起こっているのか、すぐに理解できなくて、意識が遠のく感じがした。

時空が歪んで、何かがテレパシーが脳の中にダイレクトに伝わってくるような感じ。

目の前の風景と、感情の理解が追い付かない。

一言でいえば、子どもが成長して嬉しいという「よろこび」の話なのだけれど、どうも現実味がない気がした。

長いこと、一緒に生きてきたはずなのに。毎日当たり前のように見ている姿なのに。なんだか、混乱した。

混乱するほどに、嬉しかった。
時空がゆがむほどの、よろこび。

いつの間にか、こんなに大きくなったんだなぁ。






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