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末期の夢

 春の麗らかな陽気だった。いや、そのように思えただけだ。実際に今は十二月であり、もう冬だ。だが私にはそんなことはどうでもいい。体と頭の感覚は痛み止めのモルヒネで麻痺しているのだから。左様私はもう死のうとしている。体の感覚はすでに殆どなく、今モルヒネ
を止めたところで殆ど痛みを感じないだろう。もう一度言う。私は今死のうとしている。

 自堕落な生活の果ての突然の余命宣告。私は泣きもせず、絶望にも暮れずそれを受け入れた。こうして一日中ベッドで寝ていて思うのは子供時代のことばかりだ。大人のことなど何一つ思い浮かんでこない。人は惨め極まりない人生だと笑うかもしれないが、それもまた人生だ。笑うやつには笑わせておけばいい。その中でも特に思い出すのは中学生の頃よく行っていた中華料理店のことだ。

 たまたまその店に入って食べたみそラーメンがおいしくて暇があれば何度となく店に行って食べていたのだ。正直に言って店自体はあまり好みじゃなかった。中華料理店にありがちな酢やら何やらの臭みのある匂いは耐えられないところがあったし、客の大半を占める鳶や工員の薄汚れた格好も嫌悪感を催させた。だが、みそラーメンの美味しさはそんな事を忘れてしまうぐらい美味かった。大振りのどんぶりの中に入った濃厚な味噌のスープと食べきれないほどのラーメン。その上に乗ったニラともやしとひき肉の野菜炒め。ありきたりのみそラーメンだが、それが異様にあったかくておいしかった。店主のおばあちゃんは高齢だったが、私が店に入るといつも明るい声で私を席まで迎えてくれた。

 だけど東京の高校に進学した私はいつの間にか中華料理店から足が遠のいてしまった。学校と家の往復で時間が取れなかったということもあるが、ホントのところは東京に友達が出来て遊び惚けているうちに中華料理店のことなどすっかり忘れてしまったのだ。私は友達たちと話題のラーメンを食べ歩いていたが、そんな時でさえ中華料理店の事を思い出すことはなかった。そうして一年ぐらいたった時、私はふと中華料理店の事を思い出したのである。

 私はあの中華料理店に行ってみようと思い立ち休日に久しぶりに店に出かけたのである。だが、中華料理店はそこにはなかった。代わりにあったのは有名なラーメンチェーン店であった。私はこの有様を見て呆然とした。なぜあの中華料理店がなくなっているのか。広い店の中にはいつも客がひしめいていたではないか。どうして潰れるんだ?だが、私は冷静に考えて一つのことに思い当たった。そうか、あのおばあちゃんはもう……。

 意識が朦朧としてきた。これはもうモルヒネのせいではなかった。私は今死のうとしている。世界は白くなり周りから何もかも消えてゆく。私の魂は体から浮いてゆき、カドリールを踊るように天に向かって舞い上がってゆく。その私の背景に浮かんでくるのは地上で過ごした時間の走馬灯だ。私はそれらを何の感情もなく見た。惨め極まりない人生。だがこれでお別れだ。

 その時突然私の足が地上についた。私はふと前を見る。そこは懐かしい中華料理店だった。ああ!店の前のあのおばあちゃんが私を手招きして迎え入れてくれた。店内はいつものように工員や鳶の薄汚れた服をきた男たちで埋められている。その隅には家族連れもいる。懐かしい、愛しいほど懐かしい中華料理店の光景だ。今だったらこの人たちを愛することが出来る。そして不快でしかなかったこの酢やら何やらの臭みも今はもう涙が出るぐらい愛おしい。おばあちゃんは私にいつものみそだろ?と聞いてきた。私は涙交じりで頷いた。最後の最期くらい話そうとしたのに言葉が浮かんでこない。おばあちゃんは厨房に入ってラーメンを作り出す。麺を茹でてる間にフライパンでニラともやしとひき肉を炒め始める。ああ!ごま油の野菜炒めのなんと香ばしい匂いだろう。あれがみそラーメンに混じると絶品なんだ。やがてラーメンを作り終えたおばあちゃんはラーメンの入ったどんぶりを持って私の座っているテーブルへとやってくる。はい出来たよ。ちゃんと噛んでお食べなんて私が中学生だった時と同じことを言いながら。

 なんて美味しいのだろう。こんな美味いみそラーメンは東京の話題の名店なんかじゃ食べられないものだ。私は食べながら涙した。ああ!なぜ自分はこの中華料理店を忘れてしまったのか。ここには自分にとって大事なものが全てあったのに。私は周りの視線が自分に集まっているのを見て顔を上げた。おばあちゃんがいる。工員たちがいる。鳶たちがいる。そのみんなが笑顔で私を見ている。私はこれで思い残すことはないと思った。思い出のみそラーメンを食べてあの世に行けるのなら悪くはない。天国への階段はもう開かれている。あとは階段をまっすぐ登るだけだ。


「おい、何だよこの酔っぱらい!うちの店でグースカ寝やがって!ああ!おまけにコイツ山盛りのうんこに顔突っ込んで寝てやがる!おい誰か物干し竿持って来い、コイツをつっついてやる!」

 とある新規開店の味噌ラーメン専門店の前にスーツ姿の酔っ払いが恐らく自分が漏らしたウンコを枕にして気持ちよさそうに寝ていた。彼は寝ながら「みそラーメンと別れたくない」とか寝言を言っていた。

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