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僕のエズラ・パウンド

 電車の座席に座っていた若き詩人は再び手に持っていた原稿用紙を読み出した。そうしてしばらく眉間にシワを寄せながら原稿を読んでいた彼は原稿用紙から目を逸らすとはぁ〜と長いため息をついた。やはり自分にはこの詩は完成させるだけの力はないのか。この詩はどうやら自分の手に余るようだ。しかし、と詩人はもう一度原稿用紙に視線を戻して思いを巡らした。この詩が完成すれば確実に傑作になるはずだ。自分の代表作になるどころかこの時代のモニュメントになるだろう。彼自身もたしかに最初のうちはそんなもの妄想だと思っていた。しかし書き続けていくうちにもしかしたらと思い始め、そしてとうとう確信に変わった。だが、あと一歩のところで詩人は立ち止まってしまった。詩人は鑿岩機で穴を開けて玉座に向かおうとしたのだが、その時彼は自分が持っている鑿岩機の力が自分の身に余るほど大きいことに気づいてしまったのだ。自分一人だけではこの鑿岩機の操作は出来ない、誰か具眼の士の助言があればこの鑿岩機を操作して自分の前に立ちはだかる壁をぶち破る事が出来るのに。

 詩人はまた原稿用紙に顔を埋めて詩を読み出した。この詩を書き始めた時、彼は東京に出てきてから味わった苦難を赤裸々に書いた。書いていくうちに詩は自分の苦悩から現代に生きる人間の苦悩へと広がっていった。詩人を振り回した娼婦はマグダラのマリアへと変わった。詩は異様に長くなりすぎて長編小説みたいなものになってしまった。これではいくらなんでも長すぎる。しかも書けば書くほど傑作から遠く離れてしまう状態になってしまっていた。自分はこの詩をどうしたらよいのか。そうして思い悩んでいた時、彼は同郷の先輩詩人の事を思い浮かべたのであった。この先輩詩人は現代詩の世界では気鋭の詩人と注目されていた。この男は内気な詩人と違い外交的な男で東京に出てくるなりすぐさま有名どころの文学者たちと知り合いになった。彼は世話好きな男でもあり売れない芸術家たちの相談に親身に乗っていた。男とは同じ高校でOBの親睦会に参加した時に一度顔を合わせたことがある。初めてあったときあの男は僕が詩を書いていると言うとニコリと笑って「俺も詩を書いているんだぜ。俺は昔大学の研究員だったんだが、ホテトル嬢部屋に連れ込んで学校追い出されちまってな。今はただ何もせずに出版社に世話になっているのさ。お前さんも詩を書いたら俺のとこ持ってきな。いい詩だったら俺が出版社に売り込んでやるぜ」と言ってくれた。そしてそれが冗談じゃないとの証拠にメルアドまでくれた。その頃その先輩詩人は知り合いの小説家の新作の宣伝を買って出ていて、その宣伝の効果があってその小説は新聞や雑誌、Twitterなどで非常に話題になっていた。彼の宣伝のおかげでその小説家は時代の寵児と呼ばれ、持て囃されていた。それを知った詩人は自分も彼に認められられれば有名になれるかもしれないと思った。しかしそう思ってもこの内気な詩人には彼に詩を送る勇気はなかった。

 そしてそのまま時が過ぎていったのだが、この詩の完成の直前になって壁にぶち当たった今、詩人は先輩詩人のことを思い出したのだった。あの男だったら自分に助言してくれるかもしれない。神の啓示のように自分に新たなる道を指し示してくれるかもしれない。詩人はそう考えた。詩人は衝動に突き動かされるままにPCに向かい、先輩詩人へ宛てて文章を書き出した。彼はまず親睦会であった時の事から書き、それから今自分が書いているこの詩はあまりにも壮大で自分ひとりの力では完成できない。貴兄の力を必要としていると強い表現で書いた。そして最後に書きかけの現代最も革新的な傑作になるであろう詩を載せて震える手で送信ボタンを押した。

 詩人は先輩詩人にメールで送ったあとですぐに後悔に襲われた。やはり送るべきではなかった。自分はあの詩を勝手に持ち上げすぎていた。きっと先輩詩人はあの詩を見て子供の児戯のようなものだと笑うだろう。ああ!もうすべて終わりだ。彼は日中の仕事も手につかずただ一日中ぼーっと座ったままだった。仕事中に何度もトイレに駆け込んで何度もスマホで先輩詩人からの返信を確認した。だが何も反応がない。これで終わりだ。やはり自分には詩の才能はなかったのだ。もう筆を折ってやると絶望していたその夜半だった。とうとう先輩詩人からの返信があったのだ。彼は喜びと不安の混じった衝撃に襲われて文字通り心臓が飛び出そうな程になった。メールにはこう書かれてあった。

『おっ、久しぶりだな。お前さんのことはずっと覚えていたぜ。詩送ってくれてありがとうな。あの時のことは忘れもしない。今もはっきりと覚えているぜ。あの時俺はお前さんに詩を書いたら送ってくれと言ったんだよな。お前さんちゃんと覚えていてくれたんだな。で、前置きはこの辺にしてお前さんの詩のことなんだけどな。』

 ここまで呼んで詩人はスマホから目をそらした。ああ!これから自分には神の裁きがくだされる。この具眼の士は自分の書きかけのあの詩をどう評価するのか。この先輩詩人の評価次第によっては自分の詩は完成どころか灰燼に帰すだろう。くだらぬものと自ら燃やすことになるだろう。ああ!それだけはやめてくれ!そんな判定を下されたら自分はもう終わりだ!しかし彼は続きを読まなければならなかった。いつまでも運命から逃げられないからだ。彼は勇気を出して続きを読んだ。

『率直に言って最高だったぜ。この詩が完成すれば間違いなくお前さんの最高傑作、いや時代を代表する傑作になるだろう』

 この先輩詩人の賞賛に詩人は涙を流して喜んだ。やはり彼に詩を見てもらってよかった。彼はしばらく感動に咽んでいたが、次の言葉を読んでハッと我に返った。

『だがな、この詩はあと一歩足りねえんだ。何かが足りねえし、それにくわえて無駄なものが多すぎるんだ。お前さんは多分この詩に後からいろんなものを付け足してるんだろう。だがな、それが却ってこの詩をダメにしてるんだ。このまま足していったら詩は水膨れになって破裂しちまうぞ。そうなる前に一度俺んとこに来ないかい?」

 詩人は先輩詩人の返事を最後まで読み終えてため息をついた。さすが現代詩のインフレイザーと言われるだけのことはある。彼は一読しただけで自分の詩に決定的なものがないかを見抜いてしまったのだ。詩人はすぐさま先輩詩人に感謝のメールを送った。彼はそのメールにこう書いた。

『率直な批評ありがとうございます。不躾なお願いですが、あなたと会うことは可能でしょうか。あなたに直接ご指導いただきたいのです。私の詩に何が足りないか。どうすれば私が詩を完成することができるか。あなたの助言が必要なのです。あなたは私の詩の欠点を全て指摘してくれました。やなりあなたにしか頼めない。お願いです。私をこの苦境から救って下さい。私と一緒にこの詩を空へと羽ばたかせて下さい。』

 詩人はこう書くとすぐさま送信ボタンを押した。もう運命は天に委ねられた。すぐに自分に沙汰が下されるだろう。そしてそれはすぐに来た。詩人は通知ボタンを押してメールを開けた。そこには先輩詩人の住所とともにたった一言こう書かれてあった。

『いいぜ。原稿持って俺んとこにきな』

 そして今詩人は先輩詩人の元へと向かおうとしている。彼は電車が目的の駅で止まると立ち上がってドアへと向かった。

 先輩詩人の部屋はいかにも芸術家らしいボヘミアンスタイルの内装で壁には現代アートが所狭しと飾られていた。先輩詩人によるとこの作品は全て彼が支援している芸術家たちの作品らしい。そのアートに囲まれた部屋に中心で今先輩詩人は詩人の原稿を読んでいる。先輩詩人は初めて会った時と全く変わっていなかった。あの時のように彼は伸ばしっきりの髪を炎のように逆立ててラフな格好でいた。先輩詩人は詩人にあうなり言ったものだ。「全くお前さんは変わんねえな。相変わらず銀行員みてえな格好しやがって。そういえばお前さん、銀行に勤めてたんだっけ?まだ銀行にいるのかい?」

 詩人の原稿を読み終えた先輩詩人は顔を上げて詩人を見た。そしてしばらくの沈黙の後でこう言った。

「あの、お前さん。この原稿俺が預かっていいか?この詩には大手術が必要だ。大変な手術になるだろう。しかし手術を終えた暁にはこの詩は現代詩の記念碑になるはずだ。お前さんの名前は歴史に間違いなく残るだろう。お願いだ。その手術を俺に任せてくれねえか。俺はこの詩を見殺しには出来ねえ」

 この先輩詩人の言葉を聞いて詩人が思い浮かべたのはエズラ・パウンドとT.S.エリオットのエピソードだった。もしかしたらこの人が僕のエズラ・パウンドかもしれない。だとしたら僕は彼によってT.S.エリオットのように不滅の傑作を出せるかもしれない。彼は迷った。自分の詩を他人に預けていいのだろうか。いくら具眼の士といえど彼とはほとんど面識がないではないか。だが詩人の傑作を産みたいという欲求はそんな不安を全てかき消してしまった。彼はもう先輩詩人に全てを委ねることに決めた。彼は原稿を先輩詩人に預けた。

「この原稿をあなたに託す。好きなようにしてもらって構わない」

 原稿は先輩詩人によってたったの十六行にまで刈り取られた。だがその詩はなんと素晴らしかっただろう。まるで言葉の宝石だ。彼の思想的、哲学的な部分が全て消され、ただ美だけがそこにあった。詩人は先輩詩人に感謝の言葉を送った。するとすぐに先輩詩人から返信があり、そこに来月の『現代詩手帖』にお前さんの詩が載るぜと書いてあるのを見て詩人は狂喜した。これで自分の名は歴史に残るであろう。ああ!彼こそ僕のエズラ・パウンド。彼に感謝を捧げよう!

 そして日が経ち、詩人は自分の詩が載っている『現代詩手帖』を買ったのだが、彼は表紙の隅っこに自分の名前と詩の題名があるのを見つけた。詩人は意気消沈したが、それでもあの詩は傑作であり遠からず注目されるだろうと気を取りなおしてもう一度表紙を見た。すると真ん中にデカデカと先輩詩人の名声と新作の詩の題名があるではないか。彼は先輩詩人の新作の詩が気になってきてたまらずページを開いてその詩を読んだ。

 詩人は詩を読んで頭が真っ白になった。確実にあり得ないことが起きていた。彼は自分の馬鹿さ加減に呆れ果て床に雑誌を叩きつけて叫んだ。

「これ、全部俺の詩じゃねえかよ!」


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