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『救われるか--受難の信仰』

 地球規模で最大の危機下に生きている--。そう思える時があります。

 まさしく「今」です。国内の景気、国外の 戦争激化也不況、飢きんなど枚挙にいとまがありません。

 大げさに言えば文明が懐かける手前、文明と文明が衝突する前哨にあるのではないのでしょうか。

 つまり張りつめた「危機」が訪れる一歩、いや、 半歩手前なのかもしれません。

 ここからはセンシティヴな内容になります。

 信仰は魂の救済として生きると思えます。その信心を否定する気がないことを前提に置いて話を進めてゆきます。

 この状況下にあって、信仰は慈悲に満ちた心の栄養となるのか--。この問いに直面すると、もぞもぞした、苦しい気持ちになります。

 宗教間での対立は絶えないと、思えるので。僕はどちらが善で悪と決めつける立場には、ありません。

  心の安らぎと思える信仰が他人の行動を決めてしまう。決められた行動に危うさがあると思えます。というのも、自分の意志が反映されないと思えるからです。

 それが意識・無意識のうちに集団での行動規範になると「強要」へと変貌する恐れすらあるようにも感じられます。

 具体的に。

 「誰か」・「何か」が定めた行動規範が正しいと、答を求めてしまいます。追求した結果、単一の答を強要する社会になりかねない。

 「正しさ」には脆さがあるのです。

 とはいえ、信仰を否定するのは違う。

 信仰--。それは人びとの居場所だと思えます。全否定するのは、居場所を奪う蛮行に映るのです。それは何だか、偉ぶっている。それどころか、人の行動を左右させている--。そんな利己的な考えも、非常に危険。というか、それこそ「強要」です。

 否定はできないが、同時に危うさはらみもする。その二重性を抱くと、無力な気持ちになります。

 自分軸をもち、叡智を絞り出し、衝突の激化--換言すれば、過去の過ち--を防げるか、試されている試金石なのかもしれません。

 たとえ、心の中に信仰があれど、信仰がなくとも。

            (了)

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