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短編小説 『妻が消えた日』



妻が蒸発した。

朝起きて、寝惚け眼でリビングのドアを開け発した「おはよう」の声は、さんさんと差し込む朝日に吸い込まれていった。テーブルの上には湯気が立っているコーヒー。私の好物のベーコンエッグと、みずみずしい野菜がふんだんに使われたサラダ。少し焦げ目がついた、香ばしい匂いのトースト。すべてが2セット。

つい先程用意したとしか思えないほどあたたかで、色彩にあふれた朝食が乗せられた食卓がそこにはあった。しかし。そこにあるはずの妻の姿がない。

妻の名前を呼んでみるが、返事がない。
最初トイレにいるのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。いつも彼女が履いている靴も丁寧に揃えられていた。外出しているわけではなさそうだ。

いつもと違う靴を履いて、ゴミ出しにでも行っているのかもしれない。そう思いながら食卓についた。

30年連れ添ったおしどり夫婦として近所でも有名だった私達は、子どもは産まない、と決めていた。二人の時間を丁寧に、ゆっくりと過ごしたかった。土日は二人で山登りへ出かけ、平日早く帰宅できたときには一緒に台所に立つ。食後はジャズを流しながら二人でワイングラスを傾ける。
何もかもが完璧な夫婦生活。

妻はまだ帰ってこない。いや、出かけているのだとしたら、なのだが。リビングの時計を見る。そろそろ朝食を食べないといけない時間だ。朝食の放つあたたかさをそのまま体にそっと仕舞うように、私は「いただきます」と小さな声で呟くと、妻に悪いと思いながら食事を始めた。

結局、私が会社に出かける時間まで妻の姿は見えなかった。携帯でメッセージを入れる。

「朝ごはんありがとう。近所に出かけていたのかな?行ってきます」

家を出てからはいつものルーティン。
電車に乗ってからは文庫本を開き、本の世界にどっぷりと浸る。会社についてからは仕事モードに切り替え、気づけば夕方の6時だった。今日は昼も会議が入っていたので私用の携帯を一切見られなかった。携帯を見て、メッセージアプリを確認するも、妻からの返信はなかった。さすがに心配になってくる。家に向かう道を急いだ。


***


「ただいま」

少し大きめの声で言ってみる。
外から見て電気がついていたので、妻が帰っている、と思っての音量だった。しかし返事はなかった。

リビングのドアを開けると、完璧に掃除された部屋と食卓の上に並んだあたたかい夕食が目に飛び込んできた。朝無造作に置いてしまった郵便物も綺麗に仕舞われていたし、夕食は私の好物のシチューだった。どこからどう見ても妻の手作りシチューだ。ごろごろとにんじんが入っている。

妻は家にいる、もしくは一度帰ってきたであろうことは疑う余地がない。またもや家中の部屋という部屋を探して回った。が、妻はいない。何か事件に巻き込まれてしまったのだろうか。しかし、それにしてはいつもと変わらな過ぎる日常が、目の前にあった。
私はもう一度妻にメッセージを打った。

「夕食ありがとう。どこにいるの?」

自分で読み返してみても奇怪な文章だ。夕食を作ってくれた人の居場所を知らない私。そのあとゆうに1時間は待ってみたが、妻から音沙汰はない。
待ち兼ねた私は小さく「いただきます」と呟くと一人冷めた夕食を口に運んだ。妻を心配する気持ちと、疑いようのない妻の存在感の狭間で、私は不安を押し込めるように赤ワインをあおり、眠りについた。

朝起きた時、トントントンと包丁のリズミカルな音が聞こえた、気がした。

私はああ、妻が帰ってきた、と思いながらリビングへ向かい、「昨日はどうしたの」という質問を用意しながらドアを開けた。

しかしそこには昨日の朝と全く同じ光景が広がっていた。私のお気に入りの朝食メニューと、湯気立ちのぼるコーヒー。
台所に私のよく知る妻の後ろ姿は、なかった。


それから、妻のいない日々が続いた。
警察に届け出ようと思ったこともあったが、説明しようのない妻の存在感がこの家にはある。妻が消えてしまった。文字通り蒸発してしまった。でも、確かにそこにいる。私が覚えているこの味が、丁寧な掃除ぶりが、彼女の存在を物語っている。

私の最愛の妻が、消えてしまった。

彼女は無事だろうか。

心配で胸がはちきれそうだ。



「どこにいるんだ」



私は誰に向けるわけでもなく、いや、他でもない妻に向けて、言葉を空に投げた。



*****



「何度話しかけても、応えてくれないんです」

彼女は医師にそう伝えた。

「原因は分かりませんが、老化により脳の一部機能が低下して記憶や認知ができない状態になっているようです。しかも、奥様に関わることだけのようです。特定の出来事や人に関する記憶が抜け落ちるケースはあるのですが、認知そのものができなくなる、というのは珍しいですね...」

「なぜーー」

彼女は下を向いた。
隣に座る夫の手に、自分の手を重ねた。

夫と思しき男は久方ぶり、というように声を発した。

「どこにいるんだ」

彼の手は妻の手を強く、強く、握りしめていた。






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