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レインコート

約5ヶ月間、障害福祉事業所に通所していた。毎日朝8時半には地下鉄に乗り、ついでに40分ほどのウォーキングも済ませて、10時半からのカリキュラムをこなす。午後もなんだかんだと用事ができて、帰宅は大体16時頃になった。そういう生活を、平日にびっしりと過ごし、土日は集中的に休むというサイクルだった。

その事業所では、比較的な密な人間関係を構築することも拒まなった。

自分と同じような立場で事業所に通所する者は、少ない日で5人ほど、多い日では10人ほどだった。年齢も性別もバラバラだった。20代から50代までの男女が集まっていた。コミュニケーションも活発な場所で、私も極力この輪に入るように努力した。

ここまでの人生では避けていた類の人とも、実験とリハビリを兼ねて、積極的に関わり合いを持つようにした。私は何かをしくじって、うつになり、仕事をする気力と体力を失うにまで至った。何をしくじってここまで転落したのか、それを何年も考え続け、人生の棚卸しをしている。

まだその作業自体の終わりは見えてきていないが、その一環で、これまでは選ばなかった方の選択肢を選ぶということは意識的に実践している。実験であり、リハビリだ。

数人の例外はあれど、その福祉事業所で出会った者たちは、皆何かの理由をつけて就業から逃げ続けた人種だった。私は精神科医でも、福祉の専門職でもないので、おいそれと責任あることは言えないが、素人目から見て、彼らは一般就労は難しくとも、障害者雇用や福祉的就労まで選択肢に入れれば、何かしら職を持つことは可能であると思えた。発達障害や精神疾患やアルコール中毒など、それぞれ診断名はもらっているものの、自力で公共交通機関を使い通所し、地域で一人暮らしができている者たちだった。なかには、結婚している者すらいた。

しかし、何十年という単位で、彼らは就業から離れることを決断してきた。20代から50代の男女の言い訳は、それなりのバリエーションがあったが、ようするに

「労働なんてかったるい。一生、生活保護や障害年金で暮らしていければ、それで良い」

という主張を、自らの人生で体現しようと努力する者たちだった。

最初の1、2ヶ月は慎重に見極めようと努めた。自分のような素人ではわからないような要因があって、彼らは働くことができないのだと。しかし、カリキュラムを通してグループワークで意見を交わし、プライベートの時間も交流を重ねて、LINEで文章のコミュニケーションも密にする中で、結論に達した。

彼らは、ただただ逃げているだけなのだ、と。

精神疾患など、個々の特性により、就業が難しくなっていることまで否定しないが、単純に彼らは性格が悪いのだ。

卑屈で、怠惰で、いつも誰かを攻撃しなければ気がすまない精神性。

何が彼らをここまで歪ませたのか、ということを論じれば、それは社会であったり、人間関係だったりと、これまた私の能力を超えた領域の話になろう。学校で深刻なイジメを受けていた者もいたし、親から虐待を受けた者もいた。彼らが発する他責の言葉の全てが、的外れというものでもない。

ともあれ、結果として、彼らは性格がとても悪くなった。あれでは、誰かを愛したり、愛されたりといった温かみはなかなか享受できないだろうし、それがさらに彼らを歪めていくのだろう。

弱者同士が寄り集まれば、互いに手を取り合って支え合う関係が構築されるというのは、幻想なのだとよくわかった。弱者は性格が悪くなっている可能性が高く、結果引き起こされるのは、醜い共食いのような叩き合いだ。

ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」という歌に

“弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者をたたく”

という歌詞があるが、まさにそういう光景である。

「お前は俺なんかより、よっぽど恵まれている!」
「私にもっと注目して!」
「自分たちにもっと税金を投入しろ!」

そういうことを、恥ずかしげもなく実際に言葉に出す人たちが、12畳ほどの空間に詰め込まれて、お互いに批判し合う。譲り合いもすり合わせもあったものではなく、比喩ではなく、本当に言葉のままの意味で、声量の大きさで発言権を奪い合うような場所が、「障害福祉事業所」と名付けられていた。

私にとって、大切なのはそれをこの目でしっかり目撃したことだった。

本で読んだことをソースにした想像ではなく、自分の足でその場所に通い、顔を突き合わせて会話し、自分のスマホにインストールされているLINEのアプリでメッセージをやりとりした。

それらの経験と観察を踏まえ、彼らは障害や病気のせいで社会に参加できないのではなく、その性格の悪さが原因で、無敵の人予備軍と化した人々が「障害福祉事業所」という名の隔離施設に押し込まれている、と結論付けられた。これが何よりの収穫である。

が、私はその場所で、1つ貴重な出会いに恵まれた。

彼は30代と推察される。体格はがっしりしていて、顔はなんとも味のある優しい作りをしている。

聞けば強迫性障害だという。どうしても、人と接することに恐怖を覚え、時に幻聴などにも苦しめられるとのことだった。

そんな彼は毎日、毎日、通所していた。皆と話をするのも辛いときは、玄関で立ち尽くしたまま入室できない日もあった。それでも、事業所に足を運ぶことは諦めなかった。

ある日を堺に、彼はなぜか私の隣に座るようになった。そして一生懸命、私と雑談をしようとした。「どんな趣味を持ってるのですか?」「面白かった本を教えてください」「どうやったら自分に自信を持てますか?」。不器用な口ぶりで、その緊張が目や眉間に如実に現れてもいたが、頬と口元は穏やかな笑顔でもあった。

私は彼の戦う姿勢に胸を打たれた。望む自分を獲得するために壁を乗り越えんと、懸命にあらがう人だと思った。彼は私と友人になりたがっていたが、私も彼と友人になりたかった。

生活訓練のカリキュラムにも懸命に取り組んでいた。施設内の清掃作業では決して手を抜かず、感染症を予防するためにしっかりとテーブルや椅子を拭き上げていった。自分の受け持ちが終わっても、「何か手伝えることはありませんか?」と声をかけて回った。

具合が悪いときは別室で横になっていることもあったが、通所することだけはやめなかった。「日々、自分ができるところまでやらないと、また部屋から出られなくなりますから」。無理なら家で休んでいてもいいのではないか、との私の浅はかな問いに、彼は横に寝そべったまま、朗らかな表情のままそう答えた。

ひたすらに他責の言葉が飛び交う場所で、彼だけは自分と戦っていた。

私は、これを書いている今も、強迫性障害と戦う彼に感謝をしている。尊敬もしている。彼のことを想うと、そんな人に出会えて良かったと、幸福感に包まれる。

今月に入り、私は福祉事業所への通所を止め、代わりに北海道が運営している就労支援のサービスを活用し、本格的に就職活動を再開した。うつで失職して以来、働くということに、どう向き合えばいいかわからずに苦しい時間を重ねた。

長い時間と、途方もない量の思考を重ねた。答えが見つかったなどと言うつもりはない。ただ、より自分が本当にやりたいことへの解像度が上がっただけのことだ。

私は、障害福祉事業所の支援員を目指すことにした。

自分と同じように、うつや精神疾患と折り合いをつけながら「戦う人」を支援したいのだ。(昨今では、同じ病歴や境遇の者が支援者に回るような支援をピアサポートとも呼ぶらしい。)

障害福祉事業所に通所する利用者たち。100人いれば99人は、私にとっては「お客様」だ。ビジネスとして割り切って接するべき対象だ。(私は長い期間、コールセンターの従業員として接客業務を行ってきた。)

しかし100人に1人、あるいは1,000人に1人、心から支援したい人もそこに紛れ込んでいる。強迫性障害の彼のような、戦い、あらがう人が。私はそんな人を、友人として、同じ社会を生きる仲間として支援したい。

この世界には、それでも信じられるものがある。愛することができる人がいる。ただそれは、夜空の星のように、たった1つ単体でキラキラしているわけではない。その周辺には、濁って、腐臭を放つヘドロがこびりついていて、この手を汚す覚悟がないとすくい上げることができないところに置いてある。それでも幸せになりたいのであれば、心を分厚いレインコートにくるんで、下水の中を歩くしかない。

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