180928_9.24第8回はこらくご

縁あって主催している落語会「はこらくご」。
9月24日、無事に第8回目を開催しました。

きっかけは、地元のまちづくり(=自分たちで(勝手に)まちを楽しむ)活動から。箱崎宮の放生会に合わせて企画するまちなかイベント、「ハコフェス」のコンテンツのひとつで、なおかつ、九州大学箱崎キャンパスの横にあった学生集会所「三畏閣」(今年初めに解体済み)のことを知ってもらうため、5年前から始めた企画でした。(「三畏閣」は、福岡には珍しい文化価値の高い本格的な茶室を備えた公共的な木造2階建ての和風建築で、築80年を超える風格のある建物。)
つまりそれは秋に開催されるのですが、好評を博し、昨年から春にも開催することとなり、年二回の開催となっています。秋は、上方落語の笑福亭瓶二さん(鶴瓶さんの八番弟子)、春は、立川志の八さん(志の輔さんの二番弟子)。いろいろなご縁が重なった結果なのですが、これまで落語素人だった私がどんどんと深みにハマり、経験するにつれてわかってきた、ソーシャルデザインの側面から見た落語の魅力について、少々記してみます。

落語を構成する空間とは、一見すると、不思議で奇妙なものです。

まず、目の前にひとりの和服姿の人間(噺家)が正座をして喋っている。
観客は、ただそれを聴いている。

状況を眺めて見ると、本当にただ、それだけです。

ところが、噺家の言葉を聴いている方の頭の中は、耳から入ってくる言葉を頼りに想像を巡らせ、そこで描かれているであろう情景を浮かび上がらせています。そしてそれは、その人の知識や経験、育った環境によって全く異なったものになっている、はずなのです。話している当の噺家の頭の中ももちろん、また観客の誰とも違っている、はずなのです。

にも関わらず、会場全体がある瞬間に一体となって、楽しく笑ったり、しみじみと泣けてきたり、じんわりとあったかい気持ちになったりもします。

最終的には、聴く側の想像力に委ねられているため、背景や文脈を共有できないと楽しめない、たいへんにハイコンテクストで高度な話芸、と言えるものの、英語での落語にチャレンジする噺家さんもいたりしますから、人間の想像力というものは万国共通なのかもしれません。

自分としては、たったひとりがおしゃべりする時間と空間を共有することが、こんなにも豊かさを感じられるものか、と、落語家、噺家さんの技術に舌を巻く一方、これは大いに学ばねばならない、と思うところです。
ソーシャルデザインのプロジェクトにあたっては、イメージの共有が大切です。キックオフから様々なフェーズでの進捗状況の確認、最終的なアウトプットと、次のステップへの針路の取り方。これらときに、関係各位に何をどう伝え、共有し、フィードバックを得るか?

人の頭の中を覗くことはできず、同じものを見て同じ話をしていても、感じていることは少しずつ違いますが、話芸というものはそのズレを埋めるのに大いに役立つと気づいたのです。なんなら、噺を一つ覚えてみたいぐらい。

それにしても、ことばひとつでその場に豊潤な時間や空間を生み出す落語に、現実の空間は追いつけるのだろうか?などと思ったりするものですが、人は想像の中にあってこそ、豊かな気持ちでいられるのかもしれませんね。

文化風俗風習を伝えつつ、現代にも共感できる世界観を持った落語には、きっとソーシャルデザインにとっても大事なことがたくさん詰まっているはずです。


興味を持ったら是非、はこらくごでもお世話になっている「美案寄席」へ足を運んでみてください。若手中心のイキのいい噺家さんがほぼ毎月、やってきています。
http://www.bian-fukuoka.com/


講師S

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