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母の日・贈り物考

五月十二日は母の日というやつだった。母の日というイベント的なやつ。そういうやつ。そういうやーつ。

わたしは今年の母の日、この数年来ずっとできなかったことを成しとげた。なんと、母の日当日、ぴったりにプレゼントが届くように手配をしたのだ!(拍手の音) え、快挙なんですけど。わたしがんばった。当日まで本当に心臓ばくばくものだったよね。

どうしてだか、そしてある対象に限ってのことかもしれないが、贈り物をするのが苦手だ。誕生日や記念日、クリスマスや母の日のようなイベント、はたまた旅行先での土産を渡すということさえも。
いまでも鮮明に覚えている情けない思い出がある。小学生の頃の夏休み、家族で旅行に出かけた。旅行先でこれはと思う品を見つけ、当時所属していた合唱団のメンバーにお土産としてそれを購入した。子どもの思いつくものだったから、見た目がめずらしく、かわいらしいお菓子だったと思う。帰宅して次の練習日、わたしはそれを紙袋に携えて持って行った。練習前か、休憩時間か、もしくは練習後、「この前家族で旅行に行ってきたんだよ」とみんなに渡すんだ。どきどきしながら持ち重りのする紙袋を握る。けれど、わたしは、それを渡せなかった。時間がなかったわけではない。「喜んでもらえなかったらどうしよう」そんな不安がどんどん大きくなり、気後れし、みんなの話題に割り込んで「旅行に行ってきたよ」と言い出すことができなかったのだ。次の練習日にはきっと。そう誓って持ち帰った土産は、次の練習日もその次の練習日にも渡せなかった。情けないことに、同じ理由で。家では「渡せなかった」ということを家族に知られたくなくて、机の下に隠していた。そして時は過ぎ、包装紙を破られることもないまま、その土産は賞味期限が切れた。ああ、こんなはずじゃなかったのに。どうして渡せなかったんだろう?

この悪い癖はおとなになってからも続いた。もちろん、何のストレスもなく「どうぞ」とすっと渡せることもある。この癖は正そうと意識し、ある程度は何も考えずに渡せることも増えた。予算や時間の関係で自分の選んだものが満足のいくものでなかったとしても、「渡す」という行為に意味がある場合もある。いまのところ、職場と、所属している音楽サークルの仲間への土産やお礼に関してはできるようになった。借り物を返すときにちょっとしたものを添えるとか、そういうことも。

ただ、ある特定の相手に対しての贈り物に関しては、いまだにこの癖が残っている。母はラスボスと言えよう。離れて暮らすようになってからの母の日・誕生日・クリスマスの贈り物は、まあ遅れてしまうことがデフォルトであった。小学生の頃の件の土産のように、かなしい最期を迎えたものもある。「温めすぎて卵がかえった」とか意味のわからないメッセージを添えて、ウケ狙いかと思われるような品物に変えたこともある。手が込んでいるのだか何なんだか。

どうして母には、素直に贈り物ができなのだろう。理由はあるのだろうか。考えてみる。

ひとつは、「こんなものをあげても文句を言われるに違いない」というある種の防衛反応が働いているのでは、ということ。わたしからの贈り物に対し、「これどこで買ったの?」「これをおいしいと思ったの?」「あーこれね、知ってる」などの反応は、わたしにとってはあまり心地よいものではない。(伝わりにくい感情かもしれない。わたしにかかっているフィルターの影響のような気もする)
これはと思う品を選んでも、喜んでもらえないことはある。そんなの、母に限らず誰にだってありうる当たり前のことだ。わたしと相手の好みが一致しているとは限らないし、どうしようもないこと。「相手に喜んでもらうこと」は、そうなればうれしいことだけれど、そうなることを目的にしてしまうのは危険だ。
でも、やはり、ありがたがられない言葉だけを聞くのはあまり気持ちよくない。わたしが他人の感情を分離できない傾向にあるからかもしれないが、避けたいと思ってしまう。

ふたつめの理由は、ひとつめの理由と重なる部分もあるけれども、贈り物を比べられてしまうことかもしれない。母が、母の日にもらうであろう贈り物は数が予想できるが、誕生日やクリスマスはどのような人からどのようなレベルの物をもらうのか、わたしにはわからない。あれこれをもらう中で、わたしのあげたものはどのように思われているのか。自意識過剰が発動している感が否めないのだけれども、気になってしまうのだと思う。気後れする、という言葉がぴったりかもしれない。わたしの選んだものなんて…という気持ち。ああ、厄介。

このような悪い癖のあるわたしだけれども、贈り物をすること全般が苦手なわけではない。むしろ、欲しいなんて一言も言っていないのに押しつけるように贈ることもある。それも「お店で見つけた素敵な品物」というようなものに限らず、わたしが趣味で作った手作りの品物なども、である。自分の手作りの品を渡すだなんて、これまた、さっきと違う方向ではあるものの自意識がずいぶん過剰な気もするけれど。


封筒とカード、ポーチのセットを作った。お世話になった人に贈るんだ。わくわく。


この前会ったよねという人に手紙やカードを書いたり、ふと思い立って道端の植物の写真を送ったり、思うに、わたしはなんでもない日になんでもないものを贈ることが好きなのだ。誕生日だからとか記念日が○○日だからとか、タイミングありきの贈り物ではなく、「いま、これをあの人にあげたい」と主体的に贈り物をすることが好きなのだろうと思う。そういうのって、もらう側としてもうれしい。例え小さなものでも、「これ、かわいいと思ったから」という気持ちでもらうものは。



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