「Team その子」鑑賞記録
先日、といっても一か月以上前のことだが、とあるご縁があり「Team その子」という映画を鑑賞する機会をいただいた。
この映画は『解離性同一性障害への理解が深まる短編映画を作りたい』という友塚結仁監督の想いから、制作されたものである。解離性同一性障害(DID)の正しい理解を広め、そして深めていくための手段のひとつとして作られた映画だ。
主人公「その子」は、パートナーである健治と同居を始めようとしている女性。年齢は三十前後と言ったところだろうか。
約一年に渡りカウンセリングに通い、過去の整理や現在の生活での困りごとについて相談し、解決しようとしている。
日常生活で起こる記憶の欠如の問題や、「声が聞こえる」現象、それらによる人間関係のトラブルなどを相談するうち、カウンセラーからDIDではないかと指摘される。彼女が過去に経験した耐えがたい出来事を鑑みると、彼女の中に複数の人格が生まれ、彼女の症状は人格たちそれぞれの言動なのではないか、という見解だ。
「わたしはそんなのじゃない」と受け容れに抵抗を示すその子。しかしある日、症状に由来する彼女の言動から、大きなトラブルを引き起こしてしまう。
仕事もプライベートも失ってしまいそうになるその子。その子の中の人格たちも、それぞれの思いがすれ違い、「その子を助けるため」生まれてきたはずが、思いの行き違いからバラバラになってしまう。
行き場を見失いそうになるその子に、カウンセラーは人格たちひとりひとりに出てきてもらい、話をしてもらう場を設ける。それぞれの話を丁寧に聞いていくうちに、人格たちとその子自身が互いに理解し合い、これからも「Team」として生きていくことを決意する。
鑑賞しながら、いくつもの思いが消えては浮かび、消えては浮かび、苦しくないと言えば嘘になる、そんな感情に吞み込まれそうになった。
さまざまな感情に思いを馳せながら、エンドロールを眺めた。
上映後は、監督と出演・監修をされた方々のトークイベントも開催された。長年、DID症状を有するひとが身近にいる環境にある監督、また、自身がDIDであるという当事者の、リアルなトークであった。
トークでは当事者の生活での不便さや、生きにくさのようなもの、起こりがちな人間関係の齟齬などがリアルに語られていた。当事者だけでなく、その当事者と長く関わっている周囲のひとびとの話も同時に聞けたことで、よりリアルさが増して感じられた。そのひとたちの語る具体的かつ細かな日常描写は、症状を抱えながら生きていくことの困難さがよくわかる内容だった。
実際の生活や治療は、映画と違って、時間と正比例して回復(という言葉が正しいかはわからないが)することができない場合も多い。映画は(当たり前のことだが)限られた時間の中でストーリーを展開させ、終演させなければならない。人生は、終演時刻の明確な映画とは違う部分も多い。
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鑑賞直後、わたしは、DIDの症状を「自分の中に複数の人格がいて、苦しみや耐え難いことを文字通り分かつスペースがある」と捉えた。そのスペースがあることに、(誤解を恐れずに書けば)少しのうらやましさすら感じた。うらやましさ、などと書くと語弊があるのは承知だ。「当事者の気持ちを何もわかっていない」という意見もあるだろう。しかし、「大変そう」「苦しそう」というネガティヴな印象だけには終わらなかったのだ。
そのように感じたのには理由がある。とても個人的なことだが、鑑賞の数日前、わたしはあるトラブルに巻き込まれ、深いつらさを感じていた。つらい、ひとりで抱えたくない、誰かにわかってもらいたい。でも、話をして理解してくれるひとなど存在しないだろう。ああ、いまここにもうひとりわたしがいれば。もうひとりのわたしが目の前にいれば、彼女はわたしの真の理解を得られる相手になるだろうに。
わたしには幼いころから「もうひとり、わたしがいればいいのに」という願望があった。何らかの大きな感情を伴う出来事に遭遇すると、この願いを胸の中で静かに膨らませていた。悲しい出来事に遭遇したときはもちろんだが、喜び・愉しみといった出来事に対してもそうだった。どのような感情でも大きすぎると抱えきれず、安心できる場所に一時保管したいという願いだったのかもしれない。
DIDの症状が、「自分の中に苦しみを分け合う存在が生まれている」という理解だけに終わってしまうことは、とても浅はかな読み方だと思う。わたしの安易な逃避の感情のようにも捉えられる。
DIDにおいて人格が生まれる背景にはそれぞれ理由があると思うが、共通しているのは、「限界を超えるほどのストレスにさらされた際の、生き延びる手段のひとつ」という点だろう(上演前とトークの際にも丁寧な説明があった)。意識を切り離してでも自分のこころを守らなければ生き延びられないほどの、深刻な状況を切り抜けるための最終手段だった。つまり、その状況は圧倒的なパワーを持っていて、対応するにはこちらにも相応の力が必要だったということだ。
ただ、逆説的に考えれば、この映画の結末のように人格たちがうまく共存できたとき、とてつもないパワーを生み出せるような気がする。圧倒される状況を生き延びられるほどのパワーを。
それはわたしの限りなく楽観的な読みかもしれない。ただ、ひとつ言い訳をさせてもらうとすれば、この映画はこのような希望を持てる映画だ、と感じたからなのだ。トークの場が温かかったのも理由のひとつかもしれない。
症状を正しく理解すること。当事者の苦しみやつらさを想像すること。そこで自分に何ができるのか思いを寄せること。それだけで終わらず、当事者の未来に希望を見出したことは、わたしの身勝手さなのだろうか。
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もうひとつ考えたことがある。
DIDは、先述したようにひとつの防衛反応の形だ。自分を守り、生き延びるための防衛的な適応である。
しかし時間の経過などから、その防衛反応は自分にとって別の形の苦痛を生みだしたり、社会生活に支障を来たしたりするようになる。そもそも自分を守るための手段が、まるで自分を攻撃しているようにさえ見えるようになるのだ。
これは、生体の免疫反応と似ていないだろうか?
たとえば代表的な免疫反応にアレルギー反応がある。生体は、有害な異物に対して排除をする働きを持っている。これは誰もが持つ自然な機能であり、生きるために不可欠である。しかし、それが過剰に機能してしまうことで、自分にとって有害な反応(蕁麻疹など)になってしまう。それがいわゆるアレルギー反応である。
自分を守るための生体の防御機能が、「病気」「症状」として自分を攻撃してしまう。この構造はDIDと共通しているような気がする、と感じた。
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ひとつ、疑問が湧いた。「Team その子」というタイトルについてである。
以上が疑問の内容である。こちらもありがたいご縁があり、監督へ直接メールで問い合わせることができた。
監督からのお返事は次のような内容であった。
わたしは何か勘違いしていて、「その子」は母親からの通称(?)であり、主人公の本名は「明日香」であった。大変失礼なメールを送ってしまった…にも関わらず、ご丁寧に返信をいただき、感謝でいっぱいである。この場を借り、再度お礼申し上げます。
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長々と書いてしまったが、感じることはきっとひとそれぞれ。何に注目するのか、どのシーンがこころに残るのか、誰の言葉が刺さるのか。自分のこれまでを振り返って、照らし合わせるものも違う。
もし、妙に色鮮やかに映るシーンがあれば、掘り下げていくとそれは自分の中にある昇華させたい何かを見つけるきっかけ、紐解くきっかけになると思う。思いが溢れてしまうことは、時につらくエネルギーがいる。けれど、少し勇気を出してやってみてほしい、とも思う。誰かと一緒なら、安心して怖がることができる、かもしれない。
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