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遠吠え

「むしゃくしゃした時は遠吠えをするとよい。俺はむしゃくしゃして人を殴り倒したくなった時、山に行って遠吠えをしている。」
近所に住むおじさんがそう言った。

私とおじさんは山に墓参りに来ている。
私の両親の墓は山深くにあり、徒歩で行くのが難儀なのでおじさんの軽トラに乗ってきた。荷台に2リットルのペットボトルの水を2つと線香、広告チラシなどを入れたビニール袋を積んでガタガタの山道をやって来た。
道は悪路なのでガタガタ身体が揺らされ尻が痛い。私は「わざわざ墓に連れてきてもらって悪かったね。おじさん。」と言った。

私は両親と祖父母が収まっている墓に適当に水をぶっ掛け、適当に線香の束に火をつけ供えた。
墓に眠る祖父も父も大酒飲みだった。
祖父はよく朝から焼酎を湯呑みに入れてりんごジュースで割って飲んでいた。
私が4歳位の頃に「おじいちゃんが死んだらお墓に焼酎をかけてあげる。」と言って祖父はその孫の言葉に泣いたそうだ。
私はまったく覚えていないが後でそう母から聴いた。祖母も母も冷たい女だった。
私はまだこの墓に焼酎をかけてあげていない。死んでしまえば焼酎など飲みようがないから無駄である。
そして死んでしまえば無であるから、墓参りなど意味がない。
私にとって両親も祖父母も懐かしい人達ではない。
慕わしくない人の墓に参ったとて、何が変わる訳でもない。
ただおじさんが何を思ったか「おめえもたまには、親の墓に参れや。俺が山に行く時一緒にう。」と言った。
私は面倒臭えと思ったが、まぁたまにはよかろうと山に来たわけである。
「今ぐれぇの時期になるとな、山にいろいろ出てくる。おぞましいものや、霊魂や、ケダモノだ。」
私の家の墓は山の斜面に造られ右手にボロボロの崩れかけ苔むした小さな墓が並び、左側にまぁ四角い墓石が並んでいる。
右手の小さな石の群れは子供の墓。
生まれて間もなく死んだ者。
左手は先祖と呼ぶべき人らの墓だ。
当時は土葬だった。
墓場の斜面の地面の土はやたらに柔らかく足がめり込む程だが、だから土葬には掘りやすくて都合がよく、それゆえ私の先祖はここを墓所に選んだのかもしれないと私は考えた。
おじさんは私の血縁でも何でもないが面倒見が良く、なぜか私の世話をやいてくれるのだった。
おじさんは斜面の下の方へ足を踏ん張りながら降りていく。
油断すると滑りやすい地面なのだ。
墓の外れにひとつ、草に埋もれるように平べったい石がある。
おじさんはそこに空いたワンカップに小さなペットボトルから水を注ぎ、供えた。
ズボンのポケットから板チョコを出すと平べったい石の上に置いた。
私は滑らないよう足に力をいれて斜面を降りた。おじさんのそばに立ち「これも墓なのかな。おじさんなぜこれにだけ供えものを?」としゃがんでいるおじさんに訊ねた。
「これは、内緒だったんだが、俺の娘の墓だ。」
「え?どういう事?」
「うっかり俺が殺しちゃったんだ。何十年も前の話よ。お前の親父が埋めるのを手伝ってくれたのよ。埋める場所も貸してくれたのよ。」
「あー、そう。」
「それ以来、俺はむしゃむしゃして人を殴り倒したくなると山に来て遠吠えをするんだ。」とおじさんは言った。
遠吠えは何の為の叫びなのか。
つぐないか、贖罪か。しかし、すでに殺してしまった後では意味がない。
私は人の事などどうでもよかったので早く帰って昼寝でもしたかった。
昼のサイレンが山々に鳴り響いた。
「お昼のポーか。」おじさんは昼時を知らせるサイレンをポーと言った。
サイレンに続いてどこかの飼い犬が遠吠えをした。山びこがウォーンウォーンとこだまする。おじさんは立ち上がると足を踏ん張り喉をのばし、「うぉぉぉぉぉぉーっ」と天に向かって遠吠えをした。
「うぉぉぉぉーっ」おじさんの遠吠えに応えるように遠くで飼い犬も遠吠えをした。
耳をつんざく吠え声だった。近所迷惑な。
でもこの辺は人家はまばらにしか無いからいいか。
私は何気なくおじさんの足元を見た。
平べったい石の前に供えたワンカップに白いものがついている。
目を凝らすと小さな白い手が、水の入ったワンカップをか細い指で握りしめていた。
土の中から小さな小さな手だけが生えるように出ていた。
小さなお手て…と呼びたくなるような儚い手だった。
おじさんは地面を見まいとするように、ずっと天を見上げいつまでも声の限り遠吠えをしているのだった。
おぞましいもの。
それは生きた人間ではないだろうか。
あの小さなお手てを殺した者は今は人間であることをやめたがっている。
あのか細い指はこんな寂しい山奥でひとりぼっちで何を思うのか。
私は遠吠えし続けるおじさんを置いて斜面をのぼり墓地から遠ざかると軽トラの助手席で待った。
しばらくおじさんの遠吠えは聞こえていたが、やがて遠吠えはただの叫びになり、それも止んだ。
いつまで待ってもおじさんは来なかった。
それきりおじさんはもうこの世に戻って来なかった。

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