本質を見るのが苦手な子に

私の両親、特に父親は態度に厳しかった。
小さい頃からあまり悪さはしなかったが、叱られた後の態度への期待値が異様に高かった。
小さい頃から社員レベル。

母からも、その後の態度よ!と繰り返し言われた。
確かにたまにピントはずれな点で怒ることが小さい頃から散見された。

これを続けると、問題、要は叱られたことではなく、事後の態度(親のこだわり)、言い換えたら本質ではなく枝葉末節を見る人になってしまいますよということ。
現に私が身をもって体現している。

これの問題点は、”その後の態度”のは叱られたことそのものより評価基準が曖昧なこと。

要は、極端にいうと人の機嫌にも左右されるから沸点見抜けということ。
私の観察眼はこういう点から磨かれたと思う。

叱られるような話はある意味単純、成績が悪い、破った、壊した、サボった、やるべきをやらなかった、など。
理不尽に成績で怒る感じでもなかった。(社会ではこっちのが多そう)

しかし、”その後の態度”に”異様に厳しい”と、そもそもしかられたこと、根本、つまり本質を見なくなったり本質より細かい話に目が向くようになることが危険と言いたい。

私の場合、態度の悪さはずっと直らなかった。
正直いまも直っていない。

成績にうるさすぎる親の子供がぐれて勉強しなくなるの態度バージョン。
要は、おかしいけど意を唱える術(正解はないので)がないから反抗しているのだ。

子供にとっては、悪いことを悪いと理解するのに精一杯。
基準が曖昧な話を理解する、沸点を見抜くまたは、機嫌に左右されるのはいずれも精神衛生上良くない。
根本の自己肯定感に影響している。

これか、私の自己肯定の低さの根本の部分は。
そして最近改善されたのは、”本質”を見るようになったから。

今まで努力もした、優しくもした、なんだろうずれは、なんだろうこの違和感は、と考えたら、
”本質を捉えるのが苦手な点”が良くも悪くも致命的だったのだ。

とある人(父の同僚)に聞いたら父はすごく慕われていたそう。
これで、なんだかズレていた部品がカチっとはまったような気がした。
成績や進路にはうるさくなかった反面、
そういうアンビバレントな点への”期待値が高い”のはそういうことか。

父は自分がすごいことを認めてほしいと思う。
息をするように当たり前レベルまで、基本的という名前の応用態度礼節を徹底させたから、あそこまで部下が慕うのだ。
断言する、あれはリップサービスではないと思う。
小さい頃から曖昧を見抜かされてきた私が言うんだから皮肉にも大変説得力がある。

ある意味卒業式、いや、脱皮式だと思う。


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