見出し画像

欲を掻く、引き寄せの法則


最近思うのが、やはり無欲は強いということ。
欲を掻くのが悪いというより、欲を掻くと見えなくなる部分があるというイメージ。


引き寄せの法則に関して、本質では必ず叶うという風に心で決めているので、叶うまでの期間は何をしていても良いのだという。

私はこの考えが全く理解できなかった(叶うかどうかが肝だと思うから)が、今は理解できるようになった。

私なりの解釈としては叶う叶わないか気になるという事はそれは叶わせたいと欲が出てしまっている状態なんだと思う。
逆説的、というか皮肉なことに欲がなくなると中立にものを考えることができるので、
叶うかなぁと言うふうに欲をかいている間は見えなくなってしまう側面というものがあるんだと考える。
欲によって視野が狭まっているイメージ。

なので、叶う叶わないかどうか、の心配を取り除いて物事を完全なフラットに近い状態、完全な中立に近い状態で見ることができるようになった時、願望は叶いやすくなる。というよりかは、自分自身が叶う叶わないを超えたその物事の本質や真髄にたどり着き易くなるのではないかというのが私の考え方。

叶わせたい欲が悪いというより、本質に触れる妨げになるイメージ。

よって、無欲な方が、物事の本質や真髄に近づきやすくなるという意味で無欲が最強だと思っている。

関連して、これは私個人の話だが、中学生や高校生の時の方が実は自分おしゃれだったのではないかと最近感じている。

そう思う理由は、大学になるとアルバイトなどをして前よりも金が入るようになるのでブランド品が買えるようになり、更に他の人々の輝いたあれこれが、高校の時(制服を着ていた時)よりわかりやすく見やすくなってしまうからだ。そうした要因が自分と向き合う事を妨げているからである。

特に私は根本の自己肯定感が低かったので、そうしたあれこれに揺らぎやすい性格だった。

わかりやすく言うと私はストレートという肌にハリがあり、重厚感のある質のものが似合うという骨格だ。

一方、私が好きだった服たちは、ウェーブと言う華奢な骨格の人が好み似合うようなものだった。具体的には、パフスリーブや薄いてろっとしたブラウスなど後はレースなどのもの。なぜ骨格ストレートがこれらは似合わないかと言うと、肉感を拾ってしまうというのが薄い素材が似合わない理由。

次は本来は似合わないのに、SNSなどで見かけるから、周りの人や街の人友達が来ていて可愛いからと言う理由で、薄いテロテロの服を好んで着てしまっていた。

服でも骨格的にハイウェストは似合わないのに、足が長く見えると言う誘惑につられて私はハイウェストスカートやズボンに飛びついていた。
要は、このように自分の骨格、自分自身、そもそも服を着る本人というか自分そのものを無視して提供されるメリットに飛びついていたのだ。これもある種短期報酬に弱い1つなんだと思う。

自分には正直もういいぞと言いたい。
幼稚園や小学校の小さい頃から自分だけなぜか女の子っぽくなくて女子にならなくてはと強迫観念のように思い続けてきた。 
だから、本当は骨格としてはより直線的なものなどが似合うのにもかかわらず、無理矢理女子っぽいものを好んで着ようとしていた。

自分をそのようにさせようと思っていたんだけれど、やはり先日から学んできたように成し得たもの。達成したものやことは脆い。

要は何かあったときに一瞬で消えかねないということだから、私の場合はガーリーなものを着ることヤ女の子っぽくなることではなく、土台や基盤の自分そのものと向き合って認めていくということが必要である。 

また、他の例だと私は最近こそ生花を買うが、今までは枯れるという理由でプリザーブドフラワーばかりに目がいっていた。
欲深いので、枯れるのが気に入らずずっと持っていたかったのだ。
しかし、枯れゆくからこそ咲いている時の瑞々しい美しさもある。
その点を、欲を掻いたから見失っていた。

前のノートでも書いたが日本人は、勤勉な性格なので、ありのままを認めることそのものが、”楽そうに聞こえる“ことが大変な問題だと思っている。

ありのままを認めるって何もしなくていいかのようにきこえある種怠惰のようにも聞こえるがそうではなくて、その背景には徹底的に自分と向き合う、過去と向き合うなど、相応の作業時間、相応の覚悟、相応メンタルなどなど様々な要素が必要となってくると痛感する。

その意味で他の人がどうであるかなどが見えにくかった。中学や高校の時の方が自分の好みやブランドかどうかとかも気にせず、さらに骨格やパーソナルカラー等に合う服をより着ることができていたと思っている。

周りの現代とは特に周りの人と比べずに、自分は自分で生きると言う事は非常に難しい時代になってきているのはひしひしと感じる。
一方で、自分なりに折り合いを付けるというか、折り合いの付け方を研究する分析するといった事はとても大切だと考えている。

積み上げたもの、評判などは、場合によっては一瞬でなくなる。英語で言うとvanishのイメージ。

そうなるとやはり根本の自己肯定感というか、根本的に自分にどれだけしっかりと逃げずに向き合ったかということがこれからはより肝になるんだと思う。
正しいことにはたどりつきやすい時代になった、本質にもたどりつきやすい時代になった。

しかしこれは自分たちだけではなく、
他の人たちもそうである。
だからより自分の経験を交えて話すということが大切になってくる。
それならば、他の人に真似はできないし、自分にしか語り得ないこと、自分しか経験しないことだからだ。

私のように自己分析の末結局たどり着くところは、梵字徹底の大切さなど、ありきたりな事かもしれない。
だが、やはり根本的に自分と向き合う価値は、相当にあるんだと強く思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?