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大岡弥四郎事件と八柱神社とーー岡崎町奉行・松平新右衛門とは(2)


はじめに

今回は「大賀弥四郎事件」が発覚した際の松平新右衛門の反応。
そして最期を迎えた岡崎・大樹寺に至るまでの流れを追っていく。大賀(大岡)弥四郎殿のその後についてはよく見かけるが、新右衛門のその後に至るまでの過程は私も知らないでいた。

私は古文も得意ではない。
私の意訳にはなるが、ご一読いただけると幸いだ。

※注: 岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会の有志の方々が書き起こしてくださった東泉坊著『三河東泉記』を参照する。
前回も記載したが、ボランティアの方々が書き起こしてくださったものだ。出典元に起こし間違えや誤植などがある可能性がある。その点についてはご容赦いただけると有難い。

”計画”が発覚した際は新右衛門は遊戯(鹿狩り)の最中だったという
@写真AC

「大賀弥四郎事件」が発覚した際の新右衛門

ここから『三河東泉記』岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会編を参考に「大賀弥四郎事件」が発覚した時の新右衛門の反応を追っていく。

8/127p
出典:『三河東泉記』 岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編https://www.library.okazaki.aichi.jp/uploads/a66c9e44de010782216ccc51a3898bd9.pdf

P8では、武田の軍勢をどのように岡崎に引き入れるかが記述されている。
ここは多くの方が知っていることと思う。
そのため、ここでは省略する。

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出典:『三河東泉記』 岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編https://www.library.okazaki.aichi.jp/uploads/a66c9e44de010782216ccc51a3898bd9.pdf

【意訳】
弥四郎の算段が露見した際、新右衛門は柴田右森等と欠村に集まって鹿狩りをしていた。射止めた鹿を如何にして喰うかと思案していると少しばかり酒が飲みたいと思い、下男に酒を岡崎城下に買いに行かせた。
だが、下男の帰りが遅い。
待ちきれずに鹿肉を堪能しようとするとようやく下男が帰ってきた。「何が起きたのだ」と下男に尋ねてみると「今日、大岡弥四郎が謀反にて捕らえられた。町中が騒ぎになり、皆一様に戸を閉めていた。それでも、ようやく酒を買って帰ってこれた」と云う。
それを聞いた新右衛門は少しも慌てた様子を見せず、鹿汁を2~3杯食べ、酒をぐいぐいと呑み干し、柴田右森と別れ宿に戻った。

当時)欠村にも鹿がいたということかーー
八柱神社より以北は小呂村まで一面は森だったと思われる
@写真AC
10/127p
出典:『三河東泉記』 岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編https://www.library.okazaki.aichi.jp/uploads/a66c9e44de010782216ccc51a3898bd9.pdf

新右衛門は欠村の助右衛門という百姓(※当時の価値観を優先するためこの表現をする)の家まで来ると助右衛門は10月ということもあり、米俵を編んでいた。助右衛門は新右衛門のために新しい俵用のむしろを敷き客人をもてなそうと思ったが、新右衛門は使い古した編み笠と野良着を助右衛門から借りて家の裏の垣根から逃げた。

編み笠にこぎの(小衣=野良着)。
『三河東泉記』による記述に依るとおおよそ上の絵のような恰好で逃げたと思われる
@イラストAC

そのところに平岩七之助が40-50人の家来を連れ欠村に来た。然るに、浮かない顔をする助右衛門を見て不審に思い、欠村の新右衛門の屋敷に急いだ。しかし、新右衛門は屋敷にはいない。すると新右衛門と一緒に鹿狩りをしていた柴田右森が新右衛門の屋敷に来て、「新右衛門を出せ」という。
右森は「私はこれっぽっちも(大岡弥四郎事件の謀反についてか)知らなかった」と言い、刀を平岩に渡した。また平岩は右森の「謀反については知らない」という言葉も受け取った。

平岩は(新右衛門の屋敷にいた者に対してか)帰り際に「家康公は放っておかないだろう。即ち新右衛門の逃げ道はない。明日、大樹寺にて切腹しろ」と言い帰っていった。
翌日、大樹寺に出向いた新右衛門は言葉どおりに切腹した。

欠村について

現代の話になる。
特に対面や電話で住所を言う際に「え、欠……ですか」と言われることがある。漢字を説明する際に「”欠席”の''欠''」等と説明することが多いためだ。
欠けるーー本来は良い意味はない。個人的にはそう思う。

裏の垣より落ちにけり

『三河東泉記』岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編
P10 上段6行目

全20巻から探さねばならないが、岡崎市史に
「欠(村)町は”崖が多いことが転じて欠とされた”」という旨の記述を見つけたことがある。

確かに起伏が多く、崖もある。また、崖を埋めたて急こう配になったであろう場所が多く在る。

また、別の由来では「欠伸が出るほど長閑な場所だったため」というものもあることを先日に知人経由で知った。

さて、裏の垣根から落ちる……そのような表現になるということは崖があったのではないだろうか。

大岡弥四郎殿と家族のその後

これは広く認知されていると思うため明確に記載する必要性はないだろう。
しかし、場所の特定(?)で「そうではないと思うのだが……」という記述を多く見かけるため、ここで個人的な意見を書くとする。

(岡崎投町)若宮 并観音之由来、元禄六年ニ再興有之、并鳥 居北向ニ成立、昔此所根石原と云、則観音堂アリ、

『三河東泉記』岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編P3
上段9行目

これは若宮八幡宮を指すのか、若宮町の観音堂を指すのか分かりかねる。

明言はできないが、”原”という名が付く以上は平地ではないか。
現代の場所でいうと若宮町・朝日町・欠町の西側あたりかーー。

大岡弥四郎連尺町大辻ノ此所ニテ、七日ニ竹 ノコキリニテヒカレ、根石原父子五人斗ハリ 付ニアガリ、

『三河東泉記』岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編P9
上段7行目

連尺町の大辻。
籠田公園の西側あたりかーー。

但し、1590年に田中吉政公が岡崎城主として入城し、岡崎の街道整備を行っている。その「大辻」もその際に整備されているかもしれない。

少なくとも、今、平穏に暮らしている方々もいる。特定の場所の明言をしない方が得策だろう。
なにより、戦乱の世と比較して平穏な現代を作って下さった方々の魂が今は安らかにいることを願わずにいられない。

まとめ

結論になるが、松平新右衛門に所縁あるものは一切遺っていない。
しかし、前の記事でも言及したように「欠村の松平家なくして、欠・八柱神社の建立はなかっただろう」
加えて、八柱神社が建立された年に義弟/実弟を亡くした私たち一族の父母・鈴木重辰と松平新右衛門姉は何を思ったのであろうか。

重辰が建てた八柱神社は熊野信仰を基に作られた神社だ(と思う)。生きている人に限らず、故人も広く受け入れるだろう。
今、春の到来を喜び咲く桜の下、新右衛門の魂もそこにあってほしい。
そうあるはずだ。

春の1日@欠町・八柱神社
(2021年頃だったか--)
@ネコチャーン撮

謝辞

『三河東泉記』岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編の転載を許可くださった岡崎市中央図書館(リブラ)様。また、書き起こして下さった有志の方々。ここで改めて深く御礼申し上げます。


最終改定: 令和6年4月9日(1回目)カバー、画像の修正/追加
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします
【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください。
引用・転載の際は必ずお声がけください

【参考文献、サイト】
岡崎市史 近世2
コトバンク https://kotobank.jp/

【出典元】
『三河東泉記』東泉坊著
       岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編
https://www.library.okazaki.aichi.jp/uploads/a66c9e44de010782216ccc51a3898bd9.pdf

Thanks,
イラストAC
https://www.ac-illust.com/
写真AC
https://www.photo-ac.com/
Canva
https://www.canva.com/



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