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HSPを受け入れた先に―――ありったけの自分で在るということ

「HSP」という言葉と出会って1年経った。

1年前、わたしは仕事で大きく悩んでいた。
そのとき、何と検索したのか全く覚えていないのだけど、武田友紀さんの「繊細の森」というホームページに辿り着いた。
そこで、HSP/繊細さんという言葉に出会った。

「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本  :武田友紀(著)

このnoteを読んでくださっている人の中にもHSP/繊細さんがいらっしゃると思う。みなさんは、自分がHSPだと分かったとき、どんな気持ちになっただろうか。

中には落胆する人もいるらしい。
あーやっぱりそうだったのかと、自分の資質と直面するからかな。

わたしは、武田友紀さんの説明の仕方がよかったのか、落胆することはなかった。むしろ、今まで起きていた色々な葛藤がすべて繋がっていたのだと気付き、立ち込める暗雲に光が射して、自分が歩いてきた道の形が明るみになったという気持ちだった。

「道」東山魁夷 (昨年京都で開かれた美術展より)


自分がHSPだということが分かって、最も、自己理解に役立ったのが、繊細さには表と裏の両面の力があるということだ。

Highly Sensitive Personという文字通り、HSPは何事にも「気づき過ぎる」面がある。

それは時に、環境や周りの人たちの影響を受け過ぎるということにつながるのだけど、一方で、よく気が利き、丁寧な対応が出来たり、リスクに敏感で慎重な対応が出来るという資質にもつながっている。


それだけではない。


今日の空はきれいだなぁ、とか、今日の日差しはいつもより柔らかくて気持ちいいなぁ、とか、お店に飾られている花が変わって、季節を感じるなぁとか。そんな些細な小さな変化に、気付くことができるのもまた、自分の繊細さや敏感さのおかげだったのだ。

日々の小さなを幸せを感じとることができる力があると同時に、大きな音に敏感だったり、人の機微を受け取り過ぎたりする力がある。それは強みと弱みなのではなく、自分の資質の両面を見ているということなのだ。

だから、逆に言えば、人の機微を受け取り過ぎる力を抑えたり、自分の感情を殺して過ごしてしまうと、自分の小さな幸せを感じ取るという素敵な力さえ弱まってしまう。

大切なのは、自分のこの資質を受け入れて、その資質で在る自分を許すこと。
そして、資質がもたらしている、両面の存在に気づき、自分の資質とうまくやっていくことなんだと思う。



わたし自身、その資質を受け入れて、現実が変化していくまで、およそ半年かかった。そして変化した後の現実に慣れるのにまた半年かかった。変化は続いており、まだとどまることはないけれど、もう前の自分とは違うなという確信がある。どうなるかはわからないけど、もう大丈夫だとこころのなかで決めている。


そんなふうに、自分の資質を受け入れて許したとき、語弊があるかもしれないけど、自分がHSPであるということは、割とどうでもよくなってきた。


同じHSPでも、いろんな人がいる。
気が合うなぁと思う人もいれば、ちょっと自分とはタイプが違うなという人もいる。

たしかに性質は似ているのかもしれないけど、HSPだからみんなこうなんだということはないんだろう。

みんなそれぞれたくさんの資質を持っており、その中の一つに繊細さがある。


繊細さは個性の一部分に過ぎないんだ。


その一部分が見えづらかったり、否定したくて隠そうとしているとき、HSPという概念と向き合うことは大切なことだろう。
でもそのプロセスを終えたとき、わたしたちはHSPという認識を超えて、色んな資質から成る"自分という多面的な個性"に出会う。

こうして、自分そのものに再会し、自分自身と手を繋ぐことが出来たとき、わたしたちははじめて、ありったけの自分で在ることができるのかもしれない。