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不連続ノート小説・ないものはない(4)「あの日の恩人」

 その日は朝から雪が降っていた。

 昨日までは青空が広がっていたのに、今朝起きると窓の外は空が白かった。メガネを掛けない状態で空を観たのと、起きてすぐに空を観たので焦点が合わなかったのとで、彼女がその白い世界の中にふわりふわりと舞い落ちるものの正体に気付くまでにまあまあの時間を要した。

 ――ローファーで行くの止めようかな、滑ると大変だし。

 そんなことを思いながら、筥崎李都はこざきりつは寒さを堪えて制服に着替えた。別におしゃれに気を配ることに注力してなんかいないけど、どこかでは「自分だって洒落っ気のある人間なんだ」と思っていたい。
    周りのクラスメイトはメイクを研究したり、爪を整えたり、ブランド物を買ったり、中には可愛らしい下着を身に着けて外からは見えない部分の美を追求したりとそれぞれが「女子高生」というブランドの価値を利用して、自分自身の価値を高めようと奮闘している。けれど自分にはそれをしようとする意欲が無い。

 爪こそ深爪しない程度に適宜切って軽くやすりを掛けることはするが、メイクだってティントリップを塗れば満足だし、下着もユニクロで売っているもので間に合っている。他の人と比べて安上がりな美容生活を送っていることは、周りの反応から判っている。中学生の頃、あるクラスメイトはそんな李都の様子をこう例えた。「素材殺しの料理人」、と。

 そのクラスメイトが言うには、「李都は眼はくっきり二重だし、鼻高いし、顔小さいし、おまけに肌も白いし、私たちが努力して掴み取ろうとしているものを最初から持ってるじゃん。そのポテンシャルなら自分の調理次第でいくらでも美味しい料理になれるはずなのに、あんた自身がその素材を使おうともしないからみんなやきもきしてるんだよ。一番競いたい相手が土俵に上がることすらしようとしないなんて、そんな惨めなことある?あんた可愛いんだよ?」だそうだ。

 そんな人を自分との比較対象に勝手に定めて、それで相手が自分の挑発に乗って来ないからって自分を卑下して、「惨め」だなんて相手が悪いような言葉を使うだなんて、卑怯だ。もっと自分は自分だと思えないのだろうか。 
 そりゃ、自分が可愛いと言われることに自覚はある。別に時間を掛けずとも可愛さを手にすることが出来ることだって、言われなくても知っている。もっと美容を勉強すればさらに素敵になれるだろうな、とは自分でも薄々感じている。けれど自分には「素敵になろうとする意志」が無い。意志が無いものをどうやって高みに昇華させれば良いのか。私はこれで満足しているのだから、そんな人に挑発されてもその挑発に応える必要性は無い、それがその時抱いた李都の正直な思いだった。

 それに、「可愛い」と呼ばれることが全ての女に対する誉め言葉なんて思ってほしくない。「カッコいい」が全ての男に対する誉め言葉じゃないように。あれはただの形容詞だ。「人間の形をした生き物だ」という意味の。人にその説明をすると変人扱いされるのは明白なので、その気持ちは心の裡にしまっている。

「今日はどれにしようかな――」

 そう呟きながら、ベッドの下の収納ボックスを開ける。そこには二十本近くの長細い箱が入っており、李都はその中の一つを取り出して開いた。中にはオーバルフレームのメガネが入っており、その他の箱にもメガネが入っている。大抵がオーバルやブロウタイプのフレームのものだが、李都にはすべてのメガネが違って見える。おしゃれに気を配ることに注力していない彼女にとって、週ごとに着用するメガネを変えることはせめてもの「おしゃれへの意思表示」である。

 いくつか箱を開けては閉めを繰り返し、今週はアンダーリムのメガネに決めた。李都の一番お気に入りのメガネである。クラスメイトが亡くなった翌日にそんな心が躍るような行為を取ることは不謹慎に思えてしまうが、これは弔いなのだ。そのクラスメイト、宇都薫への。

 あれは高校の入学式のことだった。父の転勤によって中学卒業と同時に李都たち家族は引っ越しをし、全くの新天地で彼女たちは生活を始めることになった。テレビで観たことのある横浜の地、自分たちみたいな田舎者が溶け込んでいい場所なのか、李都には期待よりも不安の方が募っていた。

 父は会社に行けば見知った顔の人がいるかもしれないし、母は脚本家という職業柄、横浜には幾度と打ち合わせの為に訪れている。けれど自分はずっと同じ街で過ごして来た。横浜には母の付き添いでやって来たことは何回かあるけれども、そこに住みたいとは思わなかった。それがここに来て、横浜の地に居を構えて日々を過ごせと言われる。あのおしゃれの権化のようなあの街に。李都には恐怖でしか無かった。

 住んでいた街での「可愛い」と都会での「可愛い」は意味合いが違う。そもそも比較対象の数が違う。十人の中から選ぶのと一万人の中から選ぶのとでは一万人の方が「可愛い」の頂点のように思えるが、その分「可愛い」という言葉の持つ濃さが強まってゆく気がするのだ。
    母の付き添いで都会の街を歩いていると、色んな煌びやかさを纏った人々が通り過ぎる。その度に李都は「綺麗だなぁ」と思うのだが、その相手はこちらを観て目を細めることがあることに気付いた。しかも眉を中心に寄せながら。

 最初は何故だろうと思っていたが、隣にいた母にある時尋ねてみると「りっちゃんを値踏みしてるのかもしれないね、あなた可愛いから」と言われた。
    値踏み。見ず知らずの人に自分の価値を付けられている事実に、李都はゾッとした。値踏みして何の得があるのだろう、自分はこいつより勝っていると思って一時の優越感を味わいたいのか。都会は空気だけせわしなくて、そこにいる人間はそんなことを考えるくらい案外暇なのか。そんなことを思った。

 小学校や中学校でもクラスメイトからは「可愛い」と言われていたが、ずっと言われ続けていたのでそれは本当のことだし本心なんだろうと、それは誉め言葉として感じることが出来た。
    しかし、都会で感じた言葉を発さない表情だけで表した「可愛い」は、どこか嫉妬と憎悪を滲ませていた。つまりは本心では無い偽りの気持ちだ。視線の意味は母の憶測でしか無かったけれど、李都にとってはその経験がまるで自分が毒虫だらけの瓶に放り込まれて蠱毒こどくを作らされる過程に参加させられているかのように思えた。

 そんな気持ちのままこちらに転校してきて入学式当日を迎えたものだから、思春期真っ盛りの若い毒虫の蔓延はびこる箱庭で三年間過ごすことになるのかと思うと、またあの値踏みするような目線を同性から向けられることへの憂鬱と恐怖を感じていたのだった。

 昇降口前の掲示板に貼られたクラス分けの紙を、人混みを掻き分けて覗く。母も李都の後ろに続いてその紙を見つめた。李都は一年五組で一クラス四十人前後で振り分けられているようだった。クラス替えは無いと聞いているので、李都の三年間はこの空間で形作られることとなった。思わず、ふぅと長めの息を吐いた。

〈そんな顔しないの、せっかくの門出と可愛い顔が台無しでしょ〉

 そう母にたしなめられ、李都は〈はぁい〉と答えて保護者控室に行く母と別れ、一階の教室に向かった。教室に入ると、もう既に半分程度のクラスメイトが来ていた。彼らは李都が入ってくると、皆動きを止めてシンと静まり返った。そして、〈やべ、めっちゃ可愛い子入って来た〉〈ラッキー、俺声掛けちゃおうかな〉〈うわぁ、あたし勝ち目無いわぁ〉などと思い思いの言葉を漏らしていた。どれも予想していた反応だったので、気にしない素振りをしながら彼らの方を観ずに正面の黒板に磁石でくっつけられた座席表を確認した。
 どうやら五十音順を半分に分けて、出席番号一番と一番最後のクラスメイトが隣り合わせになるようにしている席順にしているようだった。李都の席は窓際から二列目の最後尾、一六四cmと女性の平均身長よりは高い身長の李都としては黒板の文字が見えればどこでも良かったが、それと同時に後ろからの視線を背中に感じることが無くて良かったと思っていた。

 ――私の隣は……と、「宇都」って何て読むんだろう。でも「薫」さんかぁ。どんな子なんだろう、また出会って早々値踏みをされるのかな。

 そんな気持ちで席に向かう途中、クラスメイト中の目線がずっと自分に向けられている気がした。それぞれの顔を観ていないので判らないが、いくつかは値踏みの目線を向けていることだけは判った。憂鬱な気持ちを持ったまま席に座ると、すぐさま前にいた女子に声を掛けられた。

〈ねぇ、どこの中学?〉

 その眼は値踏みの眼はしておらず、単なる好奇心から来るものだとは判っていたが、李都はすぐに反応が出来なかった。

〈え?えと……あの、私転校してきたばかりで〉

 そう答えると、彼女は獲物を見つけたように眼を大きくした。

〈え!?高校からこっち?前はどこにいたの?〉

〈群馬の高崎市ってとこで……あの、知らないよね?〉

 そう訊くと、彼女はてっぺんでお団子を作った頭をポリポリ掻いた。

〈えへへ、ゴメン判んない、地理弱くてさ。私はずっと横浜なんだぁ、生粋のハマっ子ってやつ?〉

〈へぇ、そうなんだ……えーと〉

細萱ほそがやさゆり。友達からはガヤちゃんって呼ばれてる。宜しくね、「みやざき」さん〉

〈……あ、あの「みやざき」じゃなくて「はこざき」です……ごめんなさい〉

 「筥」という漢字はあまり見かけない漢字なので、しょっちゅう「宮」と間違えられる。おまけに「李都」も読みづらいので、「筥崎李都」をストレートで「はこざきりつ」と読めた人に出会ったことは無い。だから、別に間違えられてもそんなにショックは受けずにいられたし、机に貼られた名前には振り仮名が振っていなかったので、そうなるのも当然だった。

〈うわ、ゴメン!そうか、私「ほ」なのに「み」なわけ無いもんね。私こうゆうとこあるんだよなぁ、ゴメンゴメン〉

 素直に手を合わせて謝るさゆりの姿を観て、直感ながらもこの人は信用していいのかもしれないと李都は思った。実際、この後高校三年間を通してこの細萱さゆりとは親密な関係を築くことになるが、この時はさっき出会ったばかりで信用するってのも浅はか過ぎると思っていた。李都は油断は禁物だと、再び警戒モードを静かに発動させた。

〈いやそんな、私も慣れてるから大丈夫。それで、細萱さん〉

〈ガヤちゃんで良いよ、私も李都って呼ぶから〉

 出逢って早々、やけにフレンドリーである。こちらの心の鍵を開けるマスターキーでも持っているのだろうか。けれどここで警戒心を強めて値踏みの眼をされても困るので、乗っかることにした。

〈じゃあお言葉に甘えて……ガヤちゃんはお家もずっと横浜の人?〉

〈うん、何か先祖がペリー来航観たことあるって言ってるのをじいちゃんが言ってた。あれって浦賀だから、その頃にはうちの先祖はいたんだと思う〉

〈へぇ、ペリーって本当に観た人いるんだね、びっくり〉

〈ねー、私もびっくり〉

 びっくりするくらい短時間で打ち解けてしまい、そんなことを話しながら新入生入場までの時間をそこで過ごしていると、一人の男子が教室に入って来て、こちらに向かって来た。まだ中学一年生と言われても通用するような幼さを残した顔立ちで、男子にしては小柄、多分李都と同じくらいの身長である。そして、その男子は李都の隣の一番窓側の席に座った。

 ――え、薫「さん」じゃなくて、薫「くん」だったの?……あぁ、そう言えば俳優に小林薫っているよなぁ。別に変なことじゃ無いか。うっかりしてた。

 そんなことを思っていたら、マスターキーを所持してるさゆりが早速声を掛けた。

〈おはようカオール〉

 挨拶をされた男子はそれに応えるように、にこやかな表情で〈おはよう、ガヤちゃん〉と返した。どうやら、この二人は既に知り合いのようだった。

〈あ、小学校からの同級生の宇都うと薫くん、通称カオール。カオール、こちらは〉

〈あ、ちょっと待って、読み方当てるから〉

 そう右手を前に出すと、薫は李都の机に貼られた「筥崎李都」という名前を見つめ、右手で顎を摘まんだ。きっと読めないに決まっている。

〈うーん、「みやざき」じゃ無いよな、うかんむりじゃ無いし。……あぁ、そうかあそこと同じ漢字か。ってことは……あ、判った。「はこざきりつ」だ。どう、当たってる?〉

 衝撃だった。大人でも読むことが難しいのに、いとも簡単にフルネームを当てられた。何者だろう、こいつは。それが李都が薫に抱いた第一印象だった。当てられるとは思っていなかったので、李都はコクンとぎこちなく頷くことしか出来なかった。

〈さすがカオール、伊達に「漢字の変態」って言われてないね。李都、カオールって物凄い漢字に詳しいんだよ。だから私たちは「漢字の変態」って呼んで気持ち悪がってる〉

 さゆりは音が出ないように拍手をし、薫はヘヘヘと耳の裏をポリポリ掻いた。何だこいつ、ちょっと可愛いじゃないか。柄にも無く李都はそう思った。

〈それは俺に対する誉め言葉として受け取っておくよ。あ、それで何で判ったかと言うと、福岡に筥崎宮はこざきぐうってこれと全く同じ漢字を使う神社があるんだよ。うちの父親が福岡出身でそっちに実家があって、そっちに遊びに行った時にそこの神社お参りしたことがあったから、覚えてた。あと、名前は勘。「りつ」の方が女性の名前っぽいかなと思って〉

 その説明を聴いても、ストレートに名前を当てられたことが、未だににわかに信じがたかった。さゆりの言葉じゃ無いが、気持ち悪い。こんな人がいるなんて。

〈ほら、李都引いちゃってるじゃん。ゴメンね李都、彼、悪気は無いから〉

〈うん、判ってる。ただ初めて一発で当てた人の存在にびっくりしてるだけだから。凄いね、宇都くん〉

 いやぁ、それほどでも。そう薫が返すとまもなく、このクラスの担任が入って来た。入学式がもうすぐ始まるので、廊下に並んで入場の準備をするよう呼び掛けた。いよいよ高校生活が始まる。気を緩めないようにしないと。そう思って席を立って廊下に向かおうとすると、筥崎さん、と後ろから薫に声を掛けられた。いきなりの呼び掛けに驚いて、李都はひゃい、とおっかなびっくりで振り向いた。

〈そのメガネ、すっごい素敵だよ、筥崎さんが素敵だから似合ってる〉

 そう近くでボソッと言うと、薫は李都の横を通り過ぎて廊下に向かった。さゆりに声を掛けられるまで、李都はそこに突っ立ったままだった。「可愛い」では無くて「素敵」。そう言われたのは初めてだったので新鮮であり、その二文字が李都の心の中にじわりと浸み込んでいくのを感じたのだった。

 そこから二年。今、そのにこやかな笑顔で「素敵」と言ってくれた本人は、もうこの世にいない。昨日、クラスのグループLINEを通じて薫の訃報を知った時、李都には何を言っているのか理解出来なかった。そしてその文言を何度も読み返した時、ようやく頭が働き始め、それと同時に戦慄わななきを覚えた。薫が死んだ。私のせいだ。「私が薫を殺した」のだ。

 あの入学式から薫の死んだ二年半の間に、色んな事があった。本当に色んなことが起こった。それを思い浮かべると、私のやったことは恩人への仇返しでしか無かった。
    あの時薫が「素敵」だと言ってくれたから、自分はこのままでいれば良いんだ、「可愛い」と値踏みされても自分にとって「素敵」であり続ければ良いんだと胸を張って生きて行ける気持ちになれた。――それなのに、自分は――そんな感情が李都の頭を支配していた。

 本当なら泣き喚けたら良いのに、本当に悲しいと涙は出て来ないんだと、李都はこの一晩を過ごして悟った。好きだったかと言われれば、好意よりは感謝の気持ちの方が勝っていたので、恋人になりたいとは不思議と思わなかった。
    さゆりはと言えば、その半年くらい後に一学年上の先輩と付き合って最近険悪な雰囲気であることは知っているので、きっと薫のことは腐れ縁の幼馴染の死として認識しているのだろうと思う。もっとも、さゆり自身も「助けられなかった」として慚愧ざんきの念に堪えない状態にいるかもしれないが。

 きっと今日は始業前に全校集会があることだろう。それで校長先生や生徒指導の先生の長々とした「命の大切さ」についての話が繰り広げられることだろう。そして、みんな他人事のようにその話を半ば上の空で聴くことだろう。そんな一日の始まりが予想出来た。

 そうして身支度を済ませ、朝食を手早く済ませ、あとは登校するだけとなった時、改めてスマホを李都は観た。そしてメール画面を開いてそこに書いてある文章を見つめた。

《これで君も殺人の共犯だね》

 昨日届いた差出人不明のそのメールを前にして、「素敵な自分」なんて元からいなかったのかもしれないとあの日掛けていたアンダーリムのメガネを掛けた李都が沈み始めているのをよそに、窓の外の雪は静かに降り積もるのだった。

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