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傷とレジリエンス~エマニュエル・レヴィナス:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


理解とは暴力である

今日お話ししていくのは、エマニュエル・レヴィナスです。1906年にロシア帝国領だったリトアニアに生まれたユダヤ人で、その後フランスに帰化をしたレヴィナスは、学生時代にドイツでフッサールやハイデガーから直接教えを受けており、フランスに現象学を紹介した最初期の第一人者としても知られています。

フランス兵として第二次世界大戦を戦ったレヴィナスは、戦場でドイツ軍に捉えられ、捕虜として終戦を迎えました。フランス人として扱われたため、レヴィナス自身はホロコーストを免れたのですが、解放されてはじめて知ったユダヤ人同胞の過酷な運命と、師ハイデガーのナチス協力は彼を徹底的に打ちのめしました。

以来、レヴィナスは暴力を批判することをテーマに思索を続けることとなります。レヴィナスが対峙した暴力は第一にはナチズムです。ナチズムは、ユダヤ人というマイノリティを抹消しようとした全体主義の暴力であり、異質な存在を許そうとしない同質性の暴力でした。レヴィナスは暴力の本質を「同じさ」や「等質さ」に求めます。「他」なるものを消し去ろうとする「同」。「異質さ」を認めない「等質さ」。そこに暴力の根源があるとするのです。

「他なるもの」や「異質なもの」をテーマに考えるために、レヴィナスは、フッサール以来の現象学の言葉である言葉である「他者」を選びます。現象学から事故のキャリアをスタートしたレヴィナスですが、その後、他者をめぐって展開されたユニークな議論は「レヴィナス倫理学」として知られるようになります。「多様性」や「マイノリティ」といった言葉もずいぶんメジャーとなった昨今ですが、この現代の潮流にレヴィナスの倫理学が与えた影響は小さくないのだろうと思います。ただ、一筋縄ではいかないのもまたレヴィナスです。

「他者理解」という言葉は多くの人に馴染みのある言葉でしょう。多様性が大事な時代だから、他者のことをよく理解しましょうというわけです。しかし、レヴィナスにとってみれば、その「理解」こそが暴力の最たるものなのです。

レヴィナスによれば、理解とは、本来異質なものであるはずの他者を自分の「わかる」範囲に収めてしまうことです。世の中には二言目には「わかる~」と口にしてなんでも「わかって」しまう人がいますが、そういう人にいったいなにが「わかる」のかと苛立ったことのある人もいるでしょう。つまるところ、理解とは、異質な他者を自分たちと同質なものとして同化してしまうことです。あるはずの違いを無いものにしてしまうことです。だからこそ、暴力なのです。

他者を理解したとき他者は消失します。他者は絶対的に異質なものとして、そもそも理解をすることの決してできないものです。他者は理解の外側に残りつづけるのです。

かつてフッサールに師事したレヴィナスではありますが、フッサール流の「主体=主観」(Subjet)の理論に対しては生涯厳しい批判を向けています。フッサールは人間主体の意識に意識された対象を意味づける能力を認めています。意味づけが他者に向けられるとすれば、それこそ、他者に意味を押しつけることになります。それは他者を理解してしまうことと同じです。他者の否定であり、抹消であり、支配そのものです。


汝、殺すことなかれ

レヴィナスの他者論はフッサールの他者論とはまったく異なります。フッサールは、生き生きしたリアルタイムの経験に価値を置いた人です。フッサールの考えでは、他者との出会いとは、同じ時間、同じ場所で相互に交感するかのような生き生きとした関係になるはずです。

しかし、レヴィナスは違います。他者とは決して「わかりあえない」ものですから、同じ時間に同じ場所で出会えるはずがありません。他者は理解をすり抜けてしまうものです。捕まえたと思ったら、もう手のなかにはいないようなもの。出会ったと思ったらもうそこにはいないもの。それが他者です。したがって、他者とは「出会った」という過去形でしか接点をもてません。

他者は常に「過去にいた」というものです。過去にはたしかにいたけれど、現在にはもういない。たしかにそこにいた。どうして、そこにいたと分かるかといえば、いたという痕はあるからです。しかし、痕だけでは、どんな存在だったのか、どうしたかったのか、正確なところは決してわかりません。謎として残りつづけるもの。そうして、理解を拒むもの。それが他者です。

他者とは一方通行のメッセージのようなものです。相手がどんなつもりでメッセージをよこしてきたのか。確認したくてメッセージをしようにも、返事も来なければ、既読もつかない。そんなメッセージに似ています。だから、メッセージを受け取ったまま、もやもやしているほかはありません。

レヴィナスにとって、他者は痕跡だけを残すものです。痕跡しか手掛かりがありません。そういう他者をどうやって理解すればよいものでしょうか。他者が理解の外側にとどまりつづけるも、痕跡しかアクセスできるものがないからです。痕跡は生き生きとした現在の経験にはなりえません。どこかにかならず「わかることのできない」何かを残します。

だから、レヴィナスにとって「痕跡」という言葉は非常に重要で、痕跡のイメージを彼は多様に広げていくことになります。誰かが書き残したものとすれば文字やテキストは痕跡です。どうにか解読できる文字もあれば解読不能な暗号であるときもあるでしょう。あるいは、思い出に残るものとすれば記憶も痕跡です。そして、痛みを残すような傷跡もまた痕跡です。

もし「わかる」ことができたなら他者の痕跡は消えるのでしょう。しかし、「わかることができない」うちは消えてくれませんし、決して「わかることができない」のが他者です。忘れたいのに忘れられない。思い出したくないのに思い出してしまう。気になるともやもやする。ときに思い出すたびに苦しい思いをする古傷のような記憶。他者の記憶とはそのようなものです。だから、「わかる」とは、「わかることができない」他者の重さや苦さから逃れたいために、してしまうものなのです。

現象学の主体(主観性)のことを思い返してみましょう。現象学の主体とは「私」の主観性です。「私」は世界の中心として世界を意味づけます。そうして「私」の世界を構成します。この世界は「私」の世界ですから、「私」が安心して住まうことができるものであるはずです。世界を安定させることが「私」を安定させることです。この世界は「私」にとって「同」の世界です。だから、「私」は「私」としていられるのです。

しかし、その世界に他者が訪れます。「私」にとって「他なるもの」であり、「同質」の世界にあって「異質」なものである他者。その他者が「私」と「私」の世界に痕跡を残していきます。他者の痕跡は「私」の世界に消すことのできない傷として残ります。

他者の訪れは「私」の世界の安定を揺るがせます。「私」は「私」の世界に安心して満ち足りていたかった。心地よく閉ざしていたかった。でも、他者が訪れてしまえば許されません。自分ひとりで満ち足りようとすること、世界を閉ざそうとすること、「私」が「私」でありつづけようとすること、その一切に他者は「否」を突きつけます。他者のつけた傷から「私」の世界はほつれて、裂け目を生じていきます。

「汝、殺すことなかれ」と他者は呼びかけてくる。レヴィナスはそう語っています。他者を殺すとは、他者の呼びかけに耳をかさず、黙殺し、忘却をすることです。そして、自分の世界を安らぎのために閉ざすことです。だから、「殺すなかれ」との呼び声は、世界を決して閉ざさせはしないという「審問」の声であり、他者の呼び声を聞く「責任」を求める声です。だから、ひとたび他者の声を聞いてしまえば無関心でいつづけることはできません。


傷つきやすさ

他者が理解を拒むものだったことに立ち返りましょう。「私」の世界の一部として「私」に同化することはありえません。自分の思うようにならないものですから、ある意味、非常に不愉快なものだったり、疎ましいものだったり、厭らしいものだったりします。そうした他者の痕跡は心地よいものとはほど遠く、むしろ、痛みや苦しみを呼び起こすものです。だから、他者の記憶は外傷的な記憶(トラウマ)なのです。

レヴィナスの他者論のエッセンスは「傷つきやすさ」(ヴァルネラビリティ)という言葉にあります。第一に他者は弱く傷つきやすいものです。ホロコーストのユダヤ人に象徴されるように「同」の暴力の前に異質な「他」は無力です。しかし、反面、他者は「同」たる主体を問いただし、審問するものでもあります。そのとき「同」に留まろうとすれば、主体は耐え難い苦痛を覚え、主体の世界もほころび、ほつれていきます。そうして、今度は他者が主体を傷つきやすいものへと変えてしまうのです。

「同」による暴力を受けていた傷つきやすい「他」が、今度は、暴力を糾弾し告発する「他」へと反転して、「同」を傷つきやすいものへと変えてしまう。この逆転にレヴィナスの他者論のユニークさがあります。

他者の残した痕跡は、まるで喉元に刺さって抜けないとげのように、疼きつづける古傷のように、消すことも無くすこともできず、「私」の平穏を奪います。しかし、面と向かって文句の一つも言ってやろうにも、他者はとっくの昔に過ぎ去ってしまっています。二度と会うこともできません、そのような他者とどのような関係が成立するのでしょうか。

「わかりあう」ことが絶対に不可能な他者とのコミュニケーションはまさしく不可能事です。でも、そのコミュニケーションならぬコミュニケーションをいかに成立させていくのか、そこがレヴィナスの倫理学の重要なポイントです。

結論から言えば、他者の痕跡をまるごと引き受けることをレヴィナスは求めます。「汝、殺すなかれ」という他者の訴えは理解されることへの抵抗です。他者を理解する。すなわち、他者を自分の意味の内側に閉ざすことは、他者を殺すことです。だから、理解できない他者を理解できないまま受け入れなければなりません。「同」によって消されてしまう「他」なるものの苦痛を、今度は「他」を引き受ける「同」が自身の苦痛として引き受けるのです。しかし、それは耐え難い苦痛を「私」に引き起こします。

「他」の苦痛を「同」が丸ごと引き受けることを「身代わり」としてレヴィナスは語ります。他者の身代わりになることで、「私」は自身の奥深くに異質な他者を受け入れることになります。そのとき、「私」はもう「同」じでありつづけることはできません。「同」じであろうとすることが耐えがたい苦痛を招くのだから、「同」じであることを手放すしかないのです。「私」はもう「私」ではいられません。「私」は変わるのです。他者の身代わりになることで、「私」は「同」じあり方から「他」のあり方へと変容するのです。

「同」でありつづけることが苦しいなら、「同」であることをやめればよい。そうして、自分を変えることができたなら、自分を「他」なるものにできたなら、そのときは、苦痛が苦痛でなくなるときが来る。他者に我と我が身を委ねて、他者のまま、自分を変えることを認めるなら、そのときには、他者と平和的な関係を築くことができる可能性をレヴィナスは説いています。

たしかに、他者は「私」に苦痛をもたらします。しかし、その傷跡を傷跡のまま受け入れて、自分の大切な一部として認めることのできる「私」に変容することができるなら、それは傷からの「治癒」(レジリエンス)にもなるのです。

フッサール主体は意味を世界に与えていく積極的な力をもつ能動的な存在でした。反対に、レヴィナスは主体を徹底的に受動的な存在として考えています。主体とは、他者の訪れを受け止めて、それを契機に自分を手放し、変わっていく存在です。そして、そのような他者の受容と自己の変容こそ、「汝、殺すなかれ」という他者の呼びかけへの主体の責任なのです。そういうこともあって、レヴィナスは「責任」(responsibility)「応答可能性」と読み替えています。


他者の現代性

人生は直線に進むものでも右肩上がりのものでもありません。人の学びもまた決められたマニュアルをこなしていけばレベルが上がるものというものでもありません。ときには挫折や失敗がつきものです。二度と思い出したくもないトラウマもあるでしょう。思い通りにならないものは、人ばかりではありません。災害や事故や大病も、人生に突然訪れて甚大な傷跡を残していくものです。

傷を負うとき人は自身の限界に気づかされます。人間の力は有限で扱える世界にも限りがあります。世界の限界を超えて、その果ての向こうからやってくるもの、それが他者です。他者の到来は自分の限界を告げるものでもあるわけです。

そこで、負った傷を認め、受け入れ、どうしてこんなことがという思いに向き合うことで、新しい自分へと変容していくこと、そこに回復と学びが生じます。レジリエンスとしての学びとは、そのようなものではないでしょうか。レヴィナスの倫理学は、上手くいくことばかりではない人生のキャリアや学びに本質的なことを教えてくれます。

また、レヴィナスの倫理学は現代的な諸問題にも重要な光を投げかけるものです。レヴィナスの他者は傷つきやすいものですが、弱者とは違います。

少し前まで多様性や異文化理解などが語られる文脈では、弱者には寄り添い、寛容な心をもちましょうという呼びかけが当然のようにされていました。弱者とは、男性に対する女性、異性愛者に対する同性愛者、健常者に対する障害者と、誰にもはっきりとわかるもので、強者と弱者は入れ換え不可能なものだとされていました。そこで、偏見を捨てて、互いの違いを認め合えば、心を開いて理解しあえるといった牧歌的な光景が疑いもなく語られていたものです。しかし、2024年の世情は、それらの願いがまったく空虚な絵空事であったかのような出来事にあふれています。

レヴィナスはユダヤ人でしたが、ホロコーストの悪夢が色濃く残る20世紀において、ユダヤ人は絶対的な弱者でした。しかし、2023年にイスラエルのパレスチナ攻撃が始まるとユダヤ国家イスラエルは暴力的な強者として一気に批判されるようになりました。ただし、パレスチナ勢力にもまたテロ行為を働く勢力があることも事実です。そして、パレスチナを含むイスラム文化圏には性的マイノリティを抑圧している社会が数多くあります。さらに、性的マイノリティを擁護することが、今度は女性の権利の侵害を許していると危惧の声が上がるようにもなりました。

このように、誰が弱者で誰が強者か、誰も判断できない混とんとした状況が2024年の現在です。強者と弱者をきっぱり分けて、強者の批判だけをしていればよいという姿勢は、それこそ粗雑に十把ひとからげにしてしまう「同」の暴力そのものでしょう。

「他」を「他」のまま残すレヴィナスの思想は、ある意味で寛容さとは無縁です。他者と接することに痛みを覚えない者は誰もいません。誰もが痛みを抱えながら、それでも他者を受け入れようと苦しむ。それがレヴィナスの倫理学です。それはむしろ牧歌的な理想論を語ることが困難になってしまった、これからの多様な社会に生きるために必要になるものなのではないでしょうか。


【了】


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