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現象学の現在地点~エトムント・フッサールその4:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


現象学の現在

フッサールと現象学についてお話をしてきました。フッサールの始めた現象学が現代社会において、どのような広がりをもつようになったのか、そして、現在では新たな困難に直面もしているのではないかというお話をしていきたいと思います。

フッサールの始めた現象学は、客観的で数値化された量から主観的で数量化できない質へとエビデンスのあり方を転換させるものでした。エビデンスは客観的で数値化できるものだけに限るものではなく、「いまここ」で私が経験している主観的なリアルもまた同様にエビデンスなのであるということです。他の人には伝わらないけれども、自分は確かに経験しているという質的な経験の確かさに価値を置く。このような現象学のスタイルは、哲学を超えて、さまざまな学問に影響を与えていきました。

たとえば、心理学。心の病の状態を純粋に数字だけで評価することは困難です。どのような事情があって、どれほどの苦しさや辛さとして経験しているのか。それらの評価は患者ひとりひとりでまったく異なります。きわめて質的な評価しかできません。あるいは、社会学。ジェンダーやセクシュアリティをテーマとする際、個々人の性自認について、男性70%で女性が30%というように明確に数字化できるものはありません。やはり質的にしか語りえないところがあります。

このように、量にしきれない対象を扱う領域で現象学の考え方は非常に有効です。フッサール以後、幅広い分野で取り入れられていきました。たとえば、医療の領域では、アーサー・クラインマンという医療人類学者の書いた「病の語り」という本がよく知られています。この本でクラインマンは「病気」と「病」の差異について論じています。

クラインマンの定義に従えば、「病気」とは数字で量化できるもの、量的に計測できるものです。血糖値が〇〇以上とか、血圧が〇〇以上とか、あるいは、CT画像でしこりを発見したとか、これらはみな客観的に測定できるものです。対して「病」とは、客観的なエビデンスとは対照的に、その事象を患者各人がどのように受け止めているかという主観的な経験の質として生じるものです。

科学としての医学は「病気」を扱います。したがって、医学の専門知識を身に着けた医療者は第一に患者の「病気」を診るものです。しかし、患者が本当に診てもらいたいものが、辛さや苦しさといった「病い」の方であることがあります。そこに往々としてすれ違いが生まれます。

医療者が計測する数値では大した問題でないことでも、患者本人からすれば非常に不安で苦しいということはあるでしょう。そこで、「気にしないでください」「考えすぎです」と医療者が「病気」からのアプローチをしてしまうと患者の心を深く傷つけることにもなりかねません。患者にとってのリアルは「いまここ」で経験していることがすべてなのですから。

専門家としての医療者はもちろん「病気」の科学的な評価ができなければいけません。でも、「病気」としての価値を測れないからといって、「いまここ」の患者の抱える不安や苦しさをないがしろにしてよいものでしょうか。

量的で科学的なアプローチだけでなく、患者の質的な経験に対してのケアもできてこそ優れた医療者なのではないだろうか。そのような議論が医療者教育の文脈にはあって、そのときにクラインマンの議論はしばしば参照されます。ここでクラインマンの論じる「病気」と「病い」の差異は、まさしく現象学の文脈に根ざしたものだと言えるでしょう。


質に寄り添うばかりでは

質的で主観的なものにも寄り添おうとする視点は、多様性を尊重する現代社会にあっては非常に重要なポイントだと言えるでしょう。しかし、反面、現代において、これが少々複雑な問題を引き起こしているようにも私には思えます。たとえば、「反ワクチン」とか、「反抗がん剤」とか、「反原発」といったテーマにおいてです。

「反ワクチン」の問題はコロナ禍で注目されましたしたが、それ以前にHPVワクチンでも大きな議論となりました。科学的なエビデンスに基づいて安全が証明されたワクチンであっても、これに対して、「なんか怖い」「不安だ」と感じる人は一定数いるものです。たしかに、その「怖い」「不安だ」と感じる感覚もまた現象学的にはリアルな現実です。無下に否定することもできません。

ただ、そこであまりに現象学的な立場に振り切ってしまって、「その不安がいちばん大事なんだ」「不安に感じている人がいる限りはワクチンは打たせるな」「ワクチン接種の強制は犯罪だ」と強い主張をする人たちの方に寄り添いすぎてしまうと、では、どうしたら科学的なエビデンスに則った政策の実行ができるのかというところで暗礁に乗り上げてしまいます。HPVワクチンで日本が有効なワクチン行政を取れなくなってしまった反省点はここにあるでしょう。

質的な経験に重きを置きすぎてしまえば、専門家が果たすべき役割と責任も揺らいでしまいます。専門家たちがどれほど研鑽を重ねた知見に基づいた発言をしたとしても、SNSの片隅においては、非科学的な主張を声高にする人たちはかならずいて、その主張を支持してしまう人もいます。そこで、量的なエビデンスをもたない質的な主張にばかり引きずられてしまえば、世論形成や政治全体の意思決定にポジティブではない影響を与えてしまうでしょう。

世の中はバランスが大事だと言ってしまえば有体な話ではありますが、主観性の価値だけでは世の中を動かしていくのは非常に難しくて、やはり客観的なエビデンスの価値を維持していくことは重要なことなのだと思います。


私は「できる」

現象学を素晴らしいとするがあまり、質的な経験だけに偏るような議論の立て方には、正直危うさを覚えます。ただ、フッサールの著作を読むにつれ、フッサール自身は質的な経験だけを絶対視していたわけではないと思えてなりません。むしろ、自分自身の経験に溺れてしまうようなことは認めていないように思うのです。現象学に根ざした現代的な問題にフッサール自身はどのように考えるのかといったところを考察して、最後を締めていきたいと思います。

世界の内部に存在している私は、たしかに世界の中心として世界を意味づけています。しかし、その世界を自明なものとして受け入れてしまう態度をフッサールは現に戒めています。個人的な経験を自然のものとしてしまうような素朴な態度は一度ストップするべきだと言います。

フッサールの用語では、それを「判断停止(エポケー)」と言います。いま経験している世界への自明な意味づけ、自身の世界への判断を一時停止して、それが本当に疑いえない確かなものか点検をすること、それがエポケーです。

興味深いことに、フッサールはこのエポケーについて、自身の判断を一時停止して、そこに問題がないかを第三者の位置に立つかのように点検してみなさいと言うわけです。客観的な量の世界から主観的な質の世界に転換しようというフッサールではあるのですが、同時に、私自身がいまここで経験している経験を一旦停止して、それを第三者、まさに客観的な位置から検証することも同時に求めているのです。

大事なことは、現象学は主観的な経験を絶対化するものでも固定化するものでもないということだと思います。自分自身の主観的な経験を一時停止して、それが妥当なのかを検証しようというところまで踏み込んでの現象学なのです。

晩年のフッサールは他者の存在の問いに辿りつきます。そして、互いの世界の相違を認めつつ関わりあう間主観性の議論へと思考を広げていきます。現象学は、たしかに自分の視点から始まる学問であり、考え方ではありますが、自分の視点だけに固執するものではなく、他者の視点が無数あることに気づき、自分の視点が限られていることを自覚もして、 別の視点に立ってみたりすることによって自分を変えていくこともできるだろうという、そういったダイナミックな変化、変容にこそ重きを置く考え方だということは心にとどめておくべきだと思います。

近代西洋哲学を開いたとも言えるルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」という有名な言葉を残しました。どれほど疑って、疑って、疑いぬいても、疑っている私の思考(思う)は疑いえない。だから、疑う、すなわち考えている私こそ疑いえない存在(ある)なのだというわけです。フッサールの現象学は、デカルトの「我思う」を、「我能う」すなわち「わたしはできる」へと転じていくものだと私は思います。

現象学では人間を物質的な身体をもった存在とします。したがって、私の視点には限りがあります。デカルトの「我思う」には身体は必要ありません。デカルトにとって人間理性は神にも比すべき絶対的な存在でした。それに対して、現象学の「我思う」は身体によって制限された限定的な思考に留まります。デカルトの理性のように客観的で絶対的な判断をすることは不可能です。でも、その代わりに身体を備えた私は、その身体を動かすことが「できる」のです。「いまここ」の視点では見えない世界であっても、身体を動かせば見える世界を変えることもできます。

こうして、現象学にとって身体は視点を限定する制限であるとともに、その限定を変えることのできる可能性にもなるのです。私は身体という可能性をもっている。その可能性こそ私が存在することなのだ。「我能う」こそ、フッサールの現象学が導いたひとつの結論だったのではないでしょうか。

現象学は二つの困難にたどり着いてしまったというお話をしてきました。ひとつは身体をもっているということ。だから、限られた世界しか見ることができないということです。 もうひとつは、世界にはたくさんの私がいて、それぞれの無数の世界を生きているということです。でも、だからこそ、私たちは互いの見方の違いを確認しあうことが「できる」し、自分自身の見方を変えていくことも「できる」のです。

そして、客観性から主観性へと価値の転換を図った現象学ではありますが、他者という存在や間主観性といったテーマを取り扱うようになれば、主観性を乗り越えて他者と共有できるものについて考えないわけにもいかなくなります。そこにこそ、客観性としてのエビデンスを現象学的にも再考する意義が生まれてくるでしょう。私たちは主観性だけに偏ることもできず、客観性だけに偏ることもできず、主観性と客観性の「間」で揺らぎつづけなければならないのかもしれません。でも、その「間」にこそ現象学の「できる」がもっとも力を発揮できる領域なのではないでしょうか。


【了】

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