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歩くことを哲学する <1/6>


はじめに 歩くことを哲学する

こんにちは。
昨日はアートトさんで、レベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』を題材に、歩くことについて考える講義を受けてきました。


最初この講座を受ける際、「アートと歩くことにどんな関係が?」と不思議でならなかったのですが、「歩く」という、人にとって取るに足らないこと、神経を向けなくてもできること、無意識な運動について、どこまで哲学できるのか、ということに興味があり受講。
(ここが講座の目的ではないと思いつつ)

さらに、自分の予感としては、「日常生活のあらゆるものに疑問を持ち深掘りすると楽しいんじゃないか」というかすかな高揚感を持って参加してきました!

そんな話を自己紹介の時に話したら、
ファシリテーター(先生と呼んだらダメだらしいので)が
「そうそう、でも深掘りしすぎると、生きていけなくなるから注意」と言われました 笑

確かにね。なんでも哲学しちゃうと、生きづらいだろうなぁと思います。

そんなわけで、昨日の「歩くこと」について、学んだことと、自分なりの解釈、そして教育の分野の視点も加え、まとめていこうと思います。

「歩くこと」と「歩行」

まず第一の感想として、『ウォークス 歩くことの精神史』のわず15ページほどの読み込みだけで、ここまで「歩くこと」について考えることになろうとは思ってもいませんでした。

先にも書きましたが、「歩くこと」は歩行が困難な方でない限りは、何も意識を向けることがなく、シンプルに「移動手段」でしかないのです。(意識的にウォーキングに行く日は別として)こんな意識の外側のことについて、わずか15ページで2時間も哲学したことが、とても新鮮でした。

日課としてウォーキングをしている人にとっては「何言ってるんだ、歩行っていうのは、こんなに素晴らしい点が…」となるところでしょうが、大多数の現代人は、「家から駅まで」「駅から職場まで」「職場からお客さんの場所まで」とにかく移動手段としての「歩行」だと思います。

そんなことを大前提としながら、そして否定しながら、物語は進んでいきます。

(第一章より引用)
ある春の日、歩くことについて書こうとしていて、やはり机は大きなスケールの物事を考える場所ではないと思い直して私は立ち上がった。ゴールデンゲート橋の北側の見棄てられた要塞が点々と見える岬の方へ、谷を上り、尾根筋に沿って太平洋の岸辺まで下りていった。降水量が異常に多かった冬は過ぎ、春が来ていた。連なる丘陵は賑やかに繁茂する緑に覆われていて、そのことを毎年のように忘れては再発見させられる。新緑の間から冬を生き延びた草が顔を出し、陽光のような黄金色が雨に打たれて灰色を帯びている。残りの季節に添えられたかすかな彩だ。

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』第一章より


それまで歩行とは、移動手段云々、ということを説いていた文面から一変。
突然、彩豊かな文章が続き、「あえて」読者の脳に色を加えてくる感じがわかります。
この文章を読み終えて、どう感じました?という質問が受講者に投げかけられました。

私自身は、この一節にすごいスピード感でまくしたてられた感じがあったのですが、参加者のある方が「歩行…散歩って、思考が途切れることはないし、パッパッとうつろっていくんですよね」といったことがきっかけになり、自分の感想もまとまりました。


「このスピード感は、きっと思考が途切れない感覚に似ている。」

移ろいゆく景色、そしてそこに色彩の名称を加えていく描写でスピードが増している感覚。
この感覚が、自分自身の脳内で湧いては消えていく思考とアイデアの移り変わりにリンクしていきました。

そして、筆者が「立ち上がった」というところから、この一節が終わるまでの間、どこかに座ってこの景色を見ていたわけじゃない、ずっと歩き続けていたのだろうな、というストーリー性を感じました。



立ち止まらず歩いている筆者
歩くこと、散歩は、思考を流していく感覚に近い

こんなふうに、自分の考えが生まれては流れ、掴んではすり抜け、
でも、一つの方向へ集まっていきます。

「歩くこと」「歩行」の解像度が上がっていき、
「歩くこと」で得られるものと、「歩行」で得られるものの差について考え始めました…
(まさに思考が歩みだした)

「歩くこと」は世界の全体に生きている

物語は視点は「歩くこと」から人々の生活へ。

いま多くの人は、バラバラになった屋内空間、家、車、ジム、オフィス、店の中で生きているけれど、徒歩では全てが連続的だ。歩く人は内部空間に滞在するのと同じように空間の隙間にも滞在する。世界を隔絶して構築された空間の内部にではなく、世界の全体に生きているのだ。

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』第一章より


この連続性という言葉はまさに言い得て妙でした。
多くの人は、空間の中で文節的に生きていますが、「歩くこと」に関しては、そのどこにでも存在し、隙間にも広がっていると言うのです。

私にとって「歩くこと(時)」は、思考がどんどん湧き上がり、そして流れていく感覚があります。

上手く循環しているような時もあれば、流れ出てしまって捕まえきれないような時もある。

川の流れのように1秒たりともそこに止まることはなく、常に新しいものへ立場を変え、そして再び巡ってくることも。

いつまでも決まらない決定は、どこか濁った思考(水)としてめぐり、そして新しいひらめきが生じれば、浄化された、キラキラとかがやきを放つような思考となって、私のところへ帰ってきてくれる。そんな感覚です。

思考の連続性と、「歩くこと」の連続性に膝を打ったわけです。


失われる連続性、教育的視点を添えて

さらに著者の経験した隙間時間についての考察が始まります。
著者がある日の新聞で見た、CDーROM版百科事典広告

「雨の日にも図書館まで歩かなければアクセスできなかった百科事典。お子様にはそんな苦労を
させたくない。クリック一つで知のすべてをお約束します」
でも本当に教育になっていたのは雨の中歩くことだったのではないだろうか。

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』第一章より



確かにCDーROMで調べたいこと一つ調べて終わり、ということはないでしょう。そこから派生されているワード、隣のページに何気なく写っていたものをクリックしたり、学びは数珠繋ぎにつながっていくのでしょうが…


あくまでもこのようなPCの中での行き来は、「公式の出来事の隙間で起こる予期できる狭い領域で生じるもの」とバッサリ批判。


人生に価値を与えるのは、計算を超えたものごとではないだろうか。と言うのです。


この一章終盤で、最短距離で進む移動手段としての「歩行」と、岬へいくような蛇行と寄り道、遠回りを進んで選ぶような「歩くこと」へ差別化がよりはっきりしていきます。


「歩くこと」で思考の連続性をうみ、また予期せぬ出来事との出会いによって、新しい価値を手に入れる。一方で、決められたこと、決められたルート、最短コースで歩もうとする「歩行」で生まれる「偶然」はあくまでも「公式の範疇」。



これは自分もまた子どもたちと活動する中で常日頃感じることです。


例えば、「アリ」について考察するとき、アリを知らない子はいないが、アリを理解しているかと聞かれれば答えにつまる子は多い。知っていると、理解しているには雲泥の差があるのです。


アリに触れ、観察し、外でよく遊ぶ子はそのアリのフォルムについても理解しているので、絵を描かせても、作らせてもよくできているのに対し、アリを絵本のデフォルメしたものしか知らないと、生物としての造形がめちゃくちゃだったりする。


いかに、自らが能動的に、そして取るにたらない(ように大人は見える)日常を好奇心を持って歩んでいるかが、如実に現れる一コマだと思います。
子どもこそ、まわり道の名人なのです。


さらには、科学の進歩によって、物事が最短・最速で処理され、自分に自由な時間が生まれたかというと、その生まれた隙間時間で新たなタスクが生まれ、一生、目的を持たない時間など生まれないのではないかと思うことがあります。


目的を持たない行為が怖い現代人はとても多いのではないでしょうか。
(それに気が付かない人もいるかもしれません)

自分の感情すら「理由」がないと持ち得てはいけないような
そんな切迫感があるのは、こうした科学技術の進歩と何もかも手の中で解決してしまう世の中が生み出しているのだと感じます。

世界を見るには

ここまで書いてみて、一度散歩に出かけました。
ふう歩いたなぁと思って時計をみてもまだ30分も経っていない。
ちょっとびっくりしました。自由に過ごすということが自由にできなくなっている。


ベンチに腰掛けて考えてみました。

じゃぁ子どもたちってどうなんだろう?
アトリエの子達っていつも「時間足りない!」っていうくらい遊びこんでいます。
好きなことに没頭している時、時間は猛スピードで駆け抜けているようです。
自由な時間を自由に過ごすことってすごいスキルなんだと思い知らされます。

一方で、分刻みで生活する子どもたちを見ると、タスクがないと不安になる自分、自由を自由に使いこなせない不自由、こんな自分を量産するような気持ちになり、不安になります。


「歩くこと」を考えた2時間。


溢れかえる膨大なデータに飲み込まれ、追われ、迫り来るデータをひたすら処理し続ける、そんなほんの隙間もない生活を疑問視するきっかけになったのは間違いありません。


ここで昨日紹介してもらったとても響いた言葉。

「世界は徒歩で旅する人に、その姿を見せる」
『歩いてみた世界 ブルース・チャトウィンの足跡』の撮影の時にヘルツォーク監督がチャトウィンに言った言葉で、チャトウィン本人が気に入っていたそう。



確かに、物事は深く、好奇心に満ちた目で、旅するべきなのだと感じました。
そして、世界は見にいくものではなく、長い旅路の先で、見せてもらえるものなのだと。

おわりに ラディカルな存在

この「歩くこと」について考える講座は全6回なのでまだまだ続きます。今後どういう刺激があるのか楽しみでしょうがないです。

「連続性のある行為」、「行為そのものが目的」、「自ら進んで回り道をする」

それって子どもたちが得意とする行動様式。
創造力に満ち満ちた子どもたちはラディカルな存在であり、忘れがちな好奇心を呼び起こしてくれる存在に他なりません。

お読みいただきありがとうございました。





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