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いち日本に住むものとして

昨今、あらゆるところで、加害と、その告発が起きておりますが、ここいらで私の考え方を整理しておきたいと思います。

私はまだまだこういうことについて勉強中の身であり、今もあらゆる文献に当たりながら、自分の考えを持たんとしている段階にあります。ただ私も現在、ある種の権力を持っているため「勉強中」が言い訳となって、何も表明しないでいるわけにはいかないので、noteで整理することにしました。それでもいろんな方の文章を引用してのものになりますが、今の時点での自分の考えをこの過程で明らかにすることで、徐々に自身を更新していきたいと思います。

さて臨床心理士の信田さよ子さんは、ご自身のnote「ひとつの応答として」でこう語っておられます。

被害があって加害が立ち上がる
おそらく暴力や加害は、被害者からの告発によって初めて明らかになる。専門外なのでよくわからないがおそらく暴力という言葉が登場したのは、近代以降の個人の権利が尊重されるようになってからだろう。部下や女(おんな)子どもを牛馬と同じ扱いをしてもかまわないという考えが社会全体の合意であれば、暴力という言葉は登場する必要はない。暴力という言葉自体が近代的価値を内包したイデオロギッシュなものなのである。
マイノリティ、弱者、被差別者、被害者と自己定義した人からの告発によって、初めてマジョリティ、強者、差別者、加害者は立ち現れる。夏目漱石が杖で激しくわが子を打擲したという逸話が残っているが(孫である夏目房之介が書いている)、当時それが虐待と言われることはなく、漱石自身も虐待加害者と言う自覚などなかっただろう。孫は父から、祖父の行為を聞かされていたということになる。受ける側はずっと忘れられなかったことがよくわかる。
このように、被害を受けた側からの告発・証言から加害者性、加害行為が立ち現れるのであり、その逆ではない。行為の順序としては能動(加害)から受動(被害)であるが、現実にはその逆なのであり、告発・証言がなければ加害は存在しないことになるのだ。

信田さよ子「ひとつの応答として」

告発・証言がなければ加害は存在しない、と聞くと「だから嫌な思いをした時は声をあげないと解決に向かっていけないよ」というふうに捉える人と「お前が何も言わなければ波風は立たなかったのに」というふうに捉える人がいます。

「お前が何も言わなければ波風は立たなかったのに」という人の中には、自分も被害を受けている場合があります。そういう人には、被害者=惨めで可哀想な人というイメージがあって、自分をそんなふうに惨めに思われたくないからそう考えるのかな?と思います。私は「被害者」にそういうイメージがないのですが、藤井セイラさんの文章を読んでそういう心理があるのだと知りました。

わたしは子どもが0歳だった頃、児童館の女性用トイレで「こんなDVにあっていませんか?」というカードを見て、すべてのチェック項目に当てはまることに気づき、ショックを受けました。

 しかし、「自分はそんなかわいそうな人間ではない」と打ち消してしまったのです。そのカードを見て、うしろめたく、つらい気持ちになりました。ですからそのとき、書かれていた窓口に電話をかけることはありませんでした。そして、それから7年後にやっと公的機関につながることができたのです。その間にDVはどんどんエスカレートしていきました。

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そして大方の「お前が何も言わなければ波風は立たなかったのに」と思っている人は、自分がその、何かしら波風のたたない状態で、利益を得ている人なのだと思います。利益というのはたいてい、地位だったり名誉・名声だったり収入だったりします。わかります。それが自分にある状態が普通だったのに、誰かが被害を受けたと告発したおかげで、あるものが失われる、となれば、不安になるのは人間の心理としては普通だと思います。(怒りは二次感情と言われてまして人が怒りを覚える時はその奥に不安や悲しみがあります)しかも、その地位や名誉や名声や収入を得るために、自分が「努力」していると尚更だと思います。特に自分を抑圧しながら必死で努力してきた人ほど、その地位が失われることを不安に感じることで、相手に怒りが湧くでしょう。

ところで現在の私は「努力」について以下の文章に激しく同意しています。

この「加害」と「努力」って、結構相関関係があるんじゃないのかなあと思うんです。努力には我慢が伴います。我慢しても抑圧された何かは無くなりませんから、どこかで発散を必要とすることになります。その時に、他者が使われるのではないかしら?

もちろん、深刻な加害には、病や人格障害が関わっていることがほとんどだと思います。そこまでくると、「努力をやめればなんとかなるんじゃないか?」とか言ってる場合ではなくなりますが、だとしてもやっぱり、努力というのはその病の上にも多少なりとも絡んでいるだろうし、そこまで深刻な病を持っていない人でも、努力はしちゃってる人が多いのではないかと思うんです。だから、努力が実はアクセルを踏みながらブレーキを踏んでいる行為だなどと言われたら受け入れ難い人も多いのではないかと思います。

だけど私、まだ46年しか生きてませんけど、最近本当に努力をやめたんです。そしたら本当に本当に、幸せを感じられるようになりました。人に対して、厳しい気持ちが、反射以外で起こらなくなった。反射で立ち上がる怒りなんかは、ぼーっと眺められるようになりました。他者への怒りは100%、自分の不安の表出なんだとわかるようになりました。だから上記の甲野善紀さんのツイートに、ものすごく手触りがあるんです。

本来は仕組みを変えるべきなんです。お菓子を食べないように我慢するんじゃなくて、お菓子を買わなくていいような仕組みを考える。目覚ましで強制的に起きるんじゃなくて、朝になれば自然と目が開くようなスケジューリングにする。でももうこうなってくると生活全とっかえ、みたいな人も出てくるのでしょう。息を吐くように、水が流れるように努力しちゃう人もいるでしょうし・・・。そういう人ほど、権力持ってる可能性もある。

だけどもし、自分が加害気味だなという自覚がある素晴らしい人がおられたら、ぜひ、努力しちゃってないかと自己点検してみてほしいと思います。努力を良きことだと思っているなら、尚更。そして、「波風を立てるな」と反射的に怒りを覚えてしまった人も、自分が加害している、二次加害しているということに気がついてほしいと思います。加害者とあなたは、努力というキーワードで結ばれているかもしれません。

さて「加害」っていうのは、ものすごくグラデーションのあるものだと思います。これをしたらアウト!みたいなことって本当に人それぞれで、やっぱり冒頭に書いた通り、とある行為について「私は嫌でした」って言われたら、行為者は加害の容疑者になりますし、疑惑でなくなれば、責任を取らなくてはなりません。特に「私は嫌でした」と言った方が、加害者よりも立場が弱い場合は尚更です。そこまでは共通理解かな?と思います。

よく性被害・加害のシーンで冤罪の可能性を心配する人がいますが、例えば人が刺されて、容疑者が逮捕されたというニュースを見たときに、もしかしたら刺された人が自分で胸を刺したかもしれない!と思っても、その判断は警察や裁判所に任せますよね?それと同じ範疇の話なので、個人的に可能性としてあるよなと思ったとしても、それで性被害の声を上げた人を「本当かどうかわからない」と口に出すのは二次加害ですのでやめましょう。また、自分の体を刺すのは痛いから冤罪の可能性が低いと思ってる人は、性被害の深刻さを理解していない、つまり無知なだけなので勉強しましょう。

さてその責任の取り方として、信田さよ子さんは「ひとつの応答として」でこうおっしゃってます。

一般の心理臨床では用いられない言葉だが、「責任」をとるとはどのようなことか。大きく分けて3つの柱から成る。

① 謝罪・賠償責任、

② 説明責任、

③ 再発防止責任、

あやまること①が何より大きいことは言うまでもない。いまやセレモニーと化した謝罪会見では数秒間頭を下げて「申し訳ございませんでした」と語る。そして③の再発防止は次なる被害を防止するためには必須である。性犯罪者処遇プログラムのほとんどが③に終始することは言うまでもない。

信田さよ子「ひとつの応答として」

このプロセスを誠実にこなしたとしても、被害を受けた人の心が癒えるかどうかは別の話です。ほとんどの場合、被害者当人は、一生かけてその傷と付き合っていかなくてはならないでしょう。だから加害者もその被害者と、一生向き合っていかねばなりません。つまり上記の三つは「被害者への一生の懺悔」と並行して果たして初めて、有効です。

また、組織がその温床となった場合は、責任を取るということを特に意識して行う必要があります。なぜ組織は意識して行わねばならないのかというと、結局組織というのは当事者意識を持ちにくい構造になっているからです。やったのはあいつで、私ではないというメンバー1人1人のエクスキューズが、組織全体に漂うべき誠実さを損ないます。そいつを罰すれば、そいつを排除すれば組織としては元に戻る。1人でもそういう考え方の人がいる組織は、非常に危険です。気が付かれてないと思うかもしれないけど、外から見たら1発でわかります。なぜなら組織は構成するメンバーの善悪関係なく、今いるメンバー全てで一つの塊だということに気がついていないから。全てが支え合って成り立っていた、そうやって取っていたバランスが、誰かが排除されることによって崩れてしまいます。新たなバランスを獲得するまで、不安定になります。その不安定さに鈍感であるということが、致命的なんです。

よく、組織の下っ端には自分なんていなくなっても関係ない、と思う人がいますが、そんなことは基本的にありえません。だから何かが起きたら、組織は組織に属する全員の意識改革から始めねばなりません。ただし、それは決して、組織のメンバーを管理するということではなくて、まずはメンバーの責任者はメンバーを信頼すること。メンバー同士が互いに勉強し、成長し合う環境づくりを行うということです。その上で、人間は必ず失敗するものであると考えることです。だからメンバーが失敗したら、共に組織で活動しているものとして、一緒に頭を下げる覚悟を持つ。そして、再発を防止ために、批判の声を受け入れて、再び勉強し成長し合い、変わろうとしていくことです。変わろうとする組織からは、おそらく変われないメンバーは自然といなくなっていくのではないかと思います。(そういえば組織は、2割の優秀な人間と2割の足を引っ張る人間、そして6割の何もしない人間で構成されている、というのも昔、内田樹先生の本で読んだことがあります。足を引っ張る人を切ってもまた、2割の足を引っ張る人が生まれてくるんだと。そのこととこの話の関係についてはまたいつか・・・・・・・)

私も自分が代表を務める会社があるし、演劇を上演するカンパニーでも主宰をしているし、今はメニコンシアタ- Aoiという劇場の芸術監督でもあります。私自身が今後、この特権を利用して無自覚であっても自覚的であってもあらゆる分野の加害者にならないことはもちろんですが、組織内でそういうことが起きた時に、どれだけ誠実な対応ができるか。ということは、これからも、勉強を続ける中で、目指していきたいと思っています。そもそも前提として、自分が権力を持つということは、それだけですでに、とっても恐ろしい武器を手にしていると考えた方がいいんです。それは決して、強みではないんです。

その武器に庇護されるために人が近寄ってくること。そして、その武器が怖くて、NOが言えず、我慢してしまう人がいるということを、十分に想定しなくてはならない、重荷であるはずです。これは例えば組織の最小単位の一つである夫婦や家族でも同じです。

いろいろ書きましたが、もちろん一つの物事はたくさんの複雑な事象が絡まり合っていて、わからないことも多いです。そんな時に、私が絶対に守ろうと思ってることがあります。

昔、京丹波町というところにお家を借りていた時に、お隣にはっちゃんというおばあちゃんが住んでいました。当時の私のパートナーと、はっちゃんとでご飯を食べていた時のこと。パートナーが私のとても大事にしていた食器を誤って割ったんです。その食器はフィンランドでしか売ってなかった結構お高いもので、私は咄嗟に頭を抱えました。その時にはっちゃんが言いました。

「@@ちゃん、大丈夫か?手怪我してないか」

はっちゃんは、食器ではなく、真っ先に私のパートナーの手を心配しました。そんなはっちゃんを見て、私は、真っ先に食器が割れたことにショックを受けた自分を、とても恥じました。仮にもパートナーだったその人の、身体よりも食器を心配するなんて。でも、まだ若い頃に自分の心の狭さにはっきり気がつけたことは良かったと思います。その後そのパートナーとは別れたのですが、今でもあの食器のことは悔いています。

それ以来私は、どんな時でも、最も重要なのは命であり、身体であり、心であるということを忘れないで生きていこうと決意しました。私は割とリーダーになることが多いので、私がそういう姿勢でいれば、周りもそのルールに従って動いてくれるようになります。評価や、お金や、ルールや、地位や、名誉のために、自分を殺している人を見れば、その魂の殺人を私は評価しないように努めます。自分ではなく他人を優先して生きるような人がいたら、自分自身を良かれと思っていじめているような人がいたら、居心地が悪くなるような空間づくりを目指しています。

私たちが本来大きく目指すのは、私たちが、心身健やかでいられることです。それでもやはり、外部ではいろんなことが起きます。その時、身体は緊張し、歪みが発生します。私は常にその歪みに敏感でありたいです。歪むこと自体を否定するのではなくて、歪むということは緊張しているということ、そのシグナルを逃さず、自分自身を緩められるようにありたいです。

ちょっとなんか、まだまだ言葉足らずな感じもあるけど、私の姿勢はこういう感じです。

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