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善と悪とは何なのだろう、そしてそれと解離の問題(主人格からの視点)

最近僕は心のなかで色々な人格があることに気づいていた。そしてその人格のなかで自分の存在というのはどのようなものかということは考えていた。これは分人主義的に捉えられることではないか。
そして、この分人主義的に捉えられるなかで、結局のところ、適切な仕方でその都度、自己を分人的に自己呈示していくこと、これはアーヴィング・ゴフマンの言うところの「表局域」における自己呈示ということになるだろう。
いわば、自分を盛るという仕方でその都度、自己呈示していくのだが、そこでやはり私たちは仮面をつけてコミュニケーションしているわけだから、何らかの仕方で「より良く」自分を呈示していくことがありうるのではないか。
「より良く」自己呈示していくということ、これは確かに自分にとっては良いことなのだと思う。
そうしなければ、悪い仕方で自己呈示していくことになってしまい、それは自分という存在をいわば「悪い」存在として社会に登場させてしまうことになる。
私が読んだ『母性のユートピア』という宇野常寛さんの本のなかで次の記述がある。

【A】〔=日本は憲法9条を改正しなければならない、それは戦後において必要なことで、たとえそれがアメリカの暴力を肯定することになっても、その方が良い〕と【B】〔=憲法9条が掲げる理想は確かに偽善的なものかもしれないが、それをしなければ日本は戦後における国家として再出発できないのではないか〕、戦後民主主義批判とその反批判という二つの物語は、ともにこの戦後という長すぎた偽りの時代を国家としての正しい成熟をもって終わらせるべきだ、という前提を共有している。そして、その前提の共有によって両者の共有によって両者は実のところは全く同じ論理をもって成立している。その論理とは「あえて」偽善/偽悪を引き受けること、つまり、無垢なる状態から偽りを「あえて」引き受けることが国家としての成熟に、戦後レジームの解体につながるという論理だ。

宇野常寛 『母性のディストピア』 集英社、2017、13-14頁。

ここに「『あえて』偽善/偽悪を引き受けること」ということが言われているのだが、この偽善/偽悪を引き受けることが戦後の日本における「国家としての成熟」という問題に関わっているということがあるのだが、この「国家としての成熟」という問題と、自分の生き方を結びつけて良いのか分からないが、「あえて」偽善/偽悪を引き受けて、その存在になるということは次のことを意味しているのではないか。実際に、偽善/偽悪という存在になることで、自分たちは子どもから大人に移行することになるのではないか。
子どもから大人になることは、偽善/偽悪になるということではないか。
善そのもの、悪そのものというのは社会においては存在しない、一度このnoteでも引用したように、スティーヴンソンは次のように述べている。

〔…〕わたしは自分の快楽を人に隠すことを始め、分別のつく年齢に達して四囲の情況をも観察するようになり、栄達と社会的地位を仔細に検討し始めた頃には、既に甚だしい二重生活の深みに陥っていたのである。多くの人は、わたしの犯したような不行跡をかえって誇示するでもあろうが、わたしは自ら目標として立てた高邁な見地から、ほとんど病的ともいうべき羞恥感をもってこれらの行為を眺め、かつ、これを隠蔽したのである。そのような人間にわたしがなったのは、わたしの欠点がとくに下劣だったためではなく、むしろかえってわたしの理想の厳しさのためであった。かつわたしが、人間の二重生活を分離結合する善と悪の精神領域を、おのれの内心で一般世人よりも遥かに深い溝で断ち切らざるを得なかったのも、そのためであった。

 スティーヴンソン 『ジーキル博士とハイド氏』 田中西二郎訳、新潮文庫、90-91頁

人間には善と悪の二重性があり、それが断ち切られてしまうことによって、ジーキル博士とハイド氏の分離が生じてしまう。そして別の箇所でスティーヴンソンは次のように述べている。「これは、私が思うのでは、我々が出あう人間はすべて善と悪の混りあったものであるが」(この箇所は『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』という青空文庫からの訳になっている)、と。つまり、私たちは何らかの仕方で「善と悪の混合体」であるということである。その善と悪とを切り離すこと、それぞれに別の実体を与えて、個体化してしまうということによって、それぞれに別々の人物像が与えられてしまうということがあるのではないか。
その善と悪とに別々の形象を与えて、個体化してしまうということによって、人間において二重人格が完成してしまうのではないか。
実際には平野啓一郎の分人主義に見られるように、私たちはそれぞれの顔を人間関係において使い分けてしまっているのではないかということを考える。その別々の顔を使い分けることによって、確かに私たちは分人としてそれぞれの人格を使い分けることができる、別々のモードの自分として。
それと実際に二重人格として善の人格と悪の人格とに〈私〉という一人称的空間が分離されてしまい、それぞれにそれぞれのパーソナリティが現働化してしまうことによって、実際に社会において切り離された〈私〉としてそれぞれの顔が個体化されてしまうことは何らかの問題を生んでしまうのではないか。私たちは何度もこのnoteで引用している野間俊一の言葉をここで引きたいと思う。

分人の姿は精神疾患である多重人格(解離性同一性障害)を連想させますが、多重人格では個々の人格の主体としての〈私〉が解離され分断されてしまう点において、あくまで〈私〉の同一性が保たれている分人主義とは異なります。分断された複数の〈私〉がそれぞれの人物像をもつ多重人格こそが、戯画的に個人主義に呪縛されているのです。

野間俊一 「空白に存在の原点を問う(野間俊一)」 https://k-hirano.com/hirano20th/2355 (最終アクセス日:2024/01/07)

実際にそれぞれの人格が別々の〈私〉になってしまうこと、そこに解離の問題があるのではないか。その点について、分人=〈私〉の同一性が保たれている/解離=〈私〉の同一性が保たれていない、という状態が区別されるのであろう。何度も言及しているように、私自身は実際に解離の診断を受けている。なので、私としては後者の状態に近いのだろう。
その点について、例えば、〈私〉が主人格と基本人格についてそれぞれの筆跡があることを書いた次の記述を参照しておこう。

そのようになっているということで、この記事は主人格の自分が書いているような状態になっているのだと思う。
その点で、私が考えていることはこの記事においては主人格からの自分の見える世界ということになる。
2つ前の記事にあるように、私自身は基本人格と主人格以外に2つの人格があることを報告している。

1、ユキ ♀ 基本人格 高校までの自分を延長として形成されている
2、アルタ ♂ 主人格 大学および大学院の学業のなかで培われた自分(元はと言えば、家のなかの自分を延長としている)
3、ハナ ♀ 交代人格 内面的にもっとも思考している。しかし、自分のことをもしかしたら人前に言えないようなことを考えている自分と思っている節がある
4、セラ ♀ 交代人格 もっとも感覚的に鋭い。ただいわゆる破壊者人格と言われる(確かこれは町沢静夫さんの本で読んだ)要素を持ち合わせている

neko.4 「仮面をつけるということ」(最終アクセス日:2024/01/07)

この「仮面をつけるということ」という記事においておそらくユキと思われる人格が言及している(ただし書いてからこれはセラが書いたのかもしれないと思った)ことについて、私は4つの別々の人格があるということを述べている。どうして私はそれを分人ではなく解離として述べたかというと、内面において、内在性解離に関する次のホームページに記載されている描画のように、私はそれぞれ別々の声を聴いているように思えるからである。

もちろんそれは統合失調症における対話性幻聴のようなものかもしれない。

言語性幻聴
話し声や言葉が聞こえる幻聴です。自分に話しかける声、自分の噂話をする声などが挙げら、それに反応することを「対話性幻聴」といいます。対話性幻聴は、周囲の人からみれば、本人が独り言や空笑いしているように見えます。

上述サイトより(最終アクセス日:2024/01/07)

私自身、解離という見方で自分を分析してきたのだが、それはいわば言語ゲームのような空間に置かれていて、実際には統合失調症の症状が私に生じているだけかもしれない。実際に医者は私のことを「統合失調症、解離性障害」という風に診断している。どちらの原因によって、私のなかに声が聴こえているのか私には本当のところを言って、分からないところがある。
ただ、筆跡にできる〈私〉という存在において、私は前述の「手紙にはならないが紙の餞別」という記事にあるように、少なくとも主人格と基本人格という二つの人格があるのではないか、ということを書いたが、実際のところ、それを自らの手で分離しているのであれば、それはジーキル博士が陥った罠と同じく、自らの手で善と悪を分離していることにならないか。
もちろん主人格と基本人格がそれぞれ、善と悪ということはないと思う。それぞれの仕方での善と悪がある。例えば、次の記事を見てみよう。

善が実は悪であること、悪が実は善であること、善と悪は同じであること。

上述サイト(最終アクセス日:2024/01/07)

上のサイトではこのようなテーゼについて説明されている。実際に、善と悪は等価なのだろうか。私たちはここで戦争というテーマについて考えることができる。戦争に参加した国は相手の国のことを悪として罵り、自分たちを善として措定する(ことが多いと思われる)。しかし、善と悪とがそれぞれ〈私たち〉/〈彼ら〉という形に分離されてしまうということがあったとして、実際に善と悪とがそれぞれの仕方で個体化された形で認識されてしまうのではないか、実際に善が〈私たち〉であり、悪が〈彼ら〉であるということはありうるのだろうか。それほど、クリアカットに、それこそ東浩紀が『観光客の哲学』のなかで、シュミットの友敵図式について言及したなかで、友と敵とに分かれざるを得ないのが人間だとしたら、そうでない仕方でコミュニケーションを取りうるのが動物的可能性だということを述べていたと私は理解している。

シュミットの友敵理論をコジェーヴのポスト歴史論と接続することで、ぼくたちは、そのグローバリズムが導く人間のすがたを形容するものとして「動物」という言葉を手に入れることができた。人間には必ず友と敵がいる。そして国家がある。しかし動物には友も敵も存在しない。そして国家も存在しない。

東浩紀 『観光客の哲学 増補版』 ゲンロン、2023、Kindle版より。

このように動物が実際にコミュニケーションにおいて友敵図式にハマりがちな人間において、そこから脱出するコミュニケーションの可能性を与えてくれているものであるように私は理解している(もちろんそこには必ずしもポジティブな意味合いだけがあるわけではないと思うのだが)。動物の交感が人間の友と敵とを分けるコミュニケーションからの脱出を与えてくれるのではないか。それは上記のように述べられていることであるのだが、実際に友が善であり、敵が悪であるという図式で私たちはコミュニケーションをすることが多いのが人間社会なのだろう(そしてそこから逃れない限り、人間は何らかの仕方で摩擦・争いを起こしてしまう)。
そして友が善であり、敵が悪であるということから、私たちはコミュニケーションをしてしまうことにより、どのような問題があるのか。
それは、善と悪とが実際にそれほど簡単に分けられるものなのかということと関係していると思われる。
二重人格について記述した上述の箇所から、自分たちは人間というのは「善と悪との混合体」であるというスティーヴンソンがジーキル博士に語らせたことから読み取れる彼の思想から、実際に自分のなかにある悪を認めることが(それは特に逆張り的なものでなく)、実際には人間を倫理的な存在にしうるのではないかということを私はこの記事における暫定的な結論として述べることにしたい。
悪については様々な本を過去に読んだが、そのなかで次の本をとりあえず挙げておきたい。

これらが私が読んだ本であるのだが、実際に悪というものをどのように考えるかということは上のような本から考えることができる。

また、今思い出したのだが、上の本ももちろん参考になった。
人間という存在において悪という存在は何なのか。私は上の記事(もう一度引用する)から次のように思い浮かんだことがある。

私たちにおいては、「善のなかの悪」、「悪のなかの善」というものを認めざるを得ない瞬間があるのではないか。
それは、どうしてそれはもちろんそう断言することはできないのだが(倫理的に相手を許せないと感じる感情自体は大事なものである)、私たちは簡単に悪を悪として決めつけて良いのかということを上の記事から考えることができるし(そのような内容が述べられている)、また偽善あるいは偽悪になることが「国家としての成熟」であるということを宇野の本から読み取れるのだが(少なくとも私の読んだ限りでは)、偽善と偽悪/善と悪という分け方ももちろんできるのだが、この偽善と偽悪なのかそれとも本当の善と悪なのかという判断は難しいのだが、実際に、偽善と偽悪であることが成熟なのであれば、善と悪とがそれぞれを純粋にそのようなものであったとして(実際に私がどこかで読んだのだが、ナチズムというのは純粋さを求める活動であったと思われる)、善と悪とを少なくとも〈私たち〉と〈彼ら〉という風に純粋に分けてしまうのは、少なくとも成熟ではないということになるのではないか。私たちが境界というのをどのように考えることができるのかという問題はあるとして、実際に偽善と偽悪であることが成熟であるならば、善と悪とをそのように分類してしまうことにより、実際に闘争が起きてしまうのは、それは成熟には到達していないことになるのではないか。成熟というものをどのように捉えるのかという問題はあると思うが、実際に「善のなかの悪」、「悪のなかの善」というものを考える時、どのような可能性がそこにあるのかということを考えざるを得ないのではないか。
私たちは「善のなかの悪」、「悪のなかの善」という風に考えた時に、そのようなことがあるなかで、実際に善と悪とをどのようにあるいは脱構築的に捉えることができるのかという問題もあると思われる。
そこに、私たちがここまでこのnoteで書いてきた解離の問題も関連させることができるのではないか。
それぞれの人格ごとに異なる価値観があるとしたら、それは実際に一人の人間でどのように統合されていくべきなのか。
あるいはそれを共存という甘い蜜のなかで混淆させてしまうのではなく、どのように一人の人間、そして個人として統合していくべきなのかという問題を私は考えていきたい(この視点においてはとにかく)、と思っている。

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