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手紙にはならないが紙の餞別

私は自分の文章を書く時にすごく苦労している。私は最近読んだ本のなかで、日常会話能力と思考言語能力が区別されているのを知った(児玉克順 『世界でいちばんやさしい 教養の教科書 〔人文・社会の教養〕』 Gakken、2023)。

「こんにちは、いい天気だね!!」と呼びかけるのが日常会話能力(あるいは本にある言葉をそのまま引くと「上記のような語彙を使って会話する能力」(同書、86頁)で、「人の普遍的な尊厳を守る根源的な在り様を………………」というように頭のなかで考える言葉が思考言語能力(あるいは本にある言葉をそのまま引くと「上記のような語彙を使って考え、説明する能力」(同書、86頁))であるということ。
私はメールを書くのがある時から下手になっていたように感じたが、それは上記のなかで思考言語能力の方でつまり説明する言葉として人に話しかけていたからではないかと思っている。
つまり、日常会話能力のほうで人に話しかける力がとても衰えていたように思うし、そしてそれは自分が体験した「世界の分身構造」のなかで、もちろん、主人格でもLINEはできていたけど、自分の場合、どうしてもまだ話しながらではないと書くのは難しいのかもしれない。
この日常会話能力と思考言語能力を日々区別して使うことができないと、人に伝わらない文章になってしまう。しかし、評論は基本的には思考言語能力で書くべきだとされている(少なくともそう読んだ、同書、86頁)。
私も評論のように書いていた文章もあるけれど、実際に日常会話能力として人に話しかけるような文章も書いて良いのかなと思う。

https://www.disney.co.jp/movie/my-element

最近、『マイ・エレメント』という映画を観た。そのなかで、水のエレメントの男性のほうが、火のエレメントの女性の方に上手く心に入っていくような言葉が発せられるところが良い、という場面があった。自分の場合、心に入っていけるのもいけないのもインターネットにおいては(現実においてもそうかもしれないですが)まだ意識的にはできないです。なので、正直なところインターネットでコミュニケーションするために何かをすることは自分の苦手範囲に入ります。対面だとできるようになってきたのですが、ネットを介してだとまだ難しいです。その点についてご了解いただければ幸いです。


自分の基本人格と呼べる言葉(この言葉は基本人格と呼べます)と主人格と呼べる言葉とを紙に書いてみようと思ったので、紙に書きました。
以前、自分の指導教員であった先生が「言葉が紙に書かれていること」というタイトルで記事を書いていました。

https://note.com/neko2to1/n/n40fb6d47aa9f

紙に書くことと、以前このnoteで取り上げた「メタ自己」の問題は関連されて、やはりそのメタ自己が壊れる、自分の個人としての輪郭が壊れる仕方でパソコンに文章を書き続けていたような気がして、それが心理衛生に悪く、大学の保健センターの精神科医には、確か「博士論文を書くとなったら大学の精神科病棟に入院することになるかもしれない」と強く言われたことがありました。私自身は確かに自分の病状を理解していないという問題があったかもしれませんし、自分の言葉にコントロールが及んでいないこともあります。それは私のせいだと思います。
私のことを嫌っていただいても構わないのですが、ただネットは何人もの人を死に追いやっている媒体で、それはだから、私たちはネットを本当の意味では使いこなしてなどいないのではないかと思うということです。
ネットを使いこなさないと単に発言で人を傷つけ傷つけられるそれだけのことになります。そうならないように、もしかしたら人に伝えるための言葉で(ある意味で「心の言葉」(先程の言葉で言うと日常会話能力の言語)で書くことが大事で)、「頭の言葉」(先程の言葉で言うと思考言語能力)で書く場面はそれこそ必要な敷居を引いている(つまりアクセスが誰でもはできないようになっている、ゲーテッドされている)本などの媒体に限るべきではないかと思いました。

そして、紙に書くことをしてみました。読んでみてもらえたら嬉しいですが、別に自分の書き込み自体クオリティ高くないと思うのでスルーしてもらっても私は傷つきはしないです。

この紙には、基本人格と主人格のそれぞれの言葉を書きました。プロフィールのようなものです。
ここにも主人格と基本人格の言葉をそれぞれ書きました。いわばそれぞれの語りです。
ここにも書きました。最後は少し考えて訂正しながら書きました。

(p.s.)東浩紀の『訂正可能性の哲学』については上記の解題を見つけて、本当に感心いたしました。自分ではこういうものは作れないです。
実は今書いている文章はパロールで書いているので、エクリチュールとは言えないです。本当は上にあるのようにエクリチュールで書くのが望ましいのかもしれないですが。確かに解離の症状はあるように私は思いますが、医者に妄想ということも言われることがあり、そこが自分の言葉をいわば「信頼のできない語り手」の言葉に(例えば、『薔薇の中の蛇』の理瀬もそうです)してしまうのではないかと思います。
厳密とは言えないかもしれないですが、私の言葉になります。基本人格からの言葉です。これは日常会話能力で書いている言葉だと思います。誰が読むかも分からないブログですが、私自身は人文学を長くしてきたので、できるだけ人文学の知見を入れていきたいとこれからも思っています。


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