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世界没落妄想を持ったことから

妄想を持つということは体験としてどのようなことなのか。
私は妄想を持って、それで自分のことがすべて自分の原因でこの世界が破滅したという思いを持ってしまった。
でも、そんなことはない。
本当に妄想におけるように世界が自分のせいで崩壊したならすごいことだが、それはないだろう。
例えば、村上靖彦の『傷の哲学、レヴィナス』のなかでは次のように書かれている。

とはいえ例外がある。このような無限責任reposonsabilité infinieは、たとえば統合失調症の人たちの迫害妄想・誇大妄想・関係妄想において具体化する。妄想において患者は世界全体に対して罪と責任を負い、それゆえに世界のなかで唯一無二の位置を占める。事例を一つ引用してみる。自死する直前の芥川龍之介の作品である。
〔…〕「僕はあらゆる罪悪を犯してゐることを信じてゐた」が、そこには理由はない。ただ、あらゆる罪悪を犯してしまって全世界に対して責任を負ってしまっていることを『歯車』の語り手(そしておそらく芥川自身も)確信しているのである。「私」と発話する一点に世界の全重量がのしかかる事態を想像することはできる。しかし実現するとしたら妄想に陥るしかない。少なくとも耐えられるものではない。〔…〕しかも論理的にもそのような無限の責任は実現不可能である。他者が複数いる以上、独りの人にすべてを贈与することは他の人の権利を搾取することになる。それゆえ論理的にも無限の責任と贈与を全世界に対して行うことはできない。

村上靖彦 『傷の哲学、レヴィナス』 河出書房新社、2023、35-36頁。

私は実はインターネットで「極大のオーダー」と「極小のオーダー」が(これに関しては宇佐美達朗の『ドゥルーズの21世紀』に所収の次の論考、タイトルは「生き別れの双子としてのシモンドンとドゥルーズ」に掲載されている言葉から思考上の触発を受けている。

いわく、「極小と極大という二重の極限で把握される前個体的なもの」がそれであるという部分である。その部分を引いてみる。

極小に見出される――より正確に言えば、閾値となるオーダー以下に見出されると仮定される――前者はかつて粒子仮説が担ったような或る種の科学的な作業仮説の役割を果たすものとして概念化され、極大に見出される後者はいわゆる自然と人間の両方を包括する実在として、それゆえ物理的、生命的、心理的、社会的な水準を含み込む実在として概念化される。前者がシモンドンによって前物理的で前生命的な前個体的実在と呼ばれるものであり、前物理的でも前生命的でもない前個体的実在とも言える後者はイオニアの自然学者たちへの参照とともに「自然」と呼ばれる。

宇佐美達朗 「生き別れの双子としてのシモンドンとドゥルーズ」 『ドゥルーズの21世紀』 河出書房新社、2019、358頁。

「極小のオーダー」と「極大のオーダー」が「前個体的なもの」において生じているということで、実際に自分自身自分という個体のある意味ではそれ以前の部分においてものすごい浸食を受けているように感じた。それは「極大のオーダー」が「極小のオーダー」を飲み込む、もしくはメッセージを送るという形で感じられる妄想であった。
何らかのメッセージが「極大のオーダー」から送られてくる。
でも、例えばテレビ番組において自分に対して登壇者が語りかけてくるなんてことはないだろう。
自分というのはその意味において特別な人間ではない。
そんな人間ではないのだが、自分の思考において恐ろしい体験をしたのが2018年頃であった。
それ以外に理性的な仕方で言語化する方法がないのだが、そのような事態があったのである。
その事態に対する私のコメントとしては私はたぶんインターネットにおいて自分の障害(解離性障害、アイデンティティ障害、統合失調系)の影響によって上手く言葉が書けないという状況に陥っているので、その意味でインターネットで言葉が歪んでいたのだろうし、現実で自分が話す言葉とはまったく違ったオーダーの言葉になっていたのだろう。
自分自身自分の障害に対する合理的配慮を求める権利はある。
それは自分自身は人の感情に配慮するよりは理性に訴えかけて物事を進めていきたいと思っているところと関係しているだろう。
私自身は理性的な反応の方を自分は優位に置いている。
今はもう情動的に人にぶつかることはほとんどなくなってきたけど、でもそれは同時に人と打ち解けて話すことが難しくなってきたこととも関係しているだろう。
人において、実際にどのような仕方で言葉を話しているのか。それは分からないが、今自分はリアルにおいてはコミュニケーションは取れているし、ネットだけカオスになっているとしたら、ネット上の分身を自分は消滅させるという意味の作り方しかできないかもしれない。
私自身はそう思っている。
digital doubleというもの、それは存在しているのだろう。
digital doubleとしての私を一旦消滅させる。
それによって自分自身はインターネットにおいて言葉を綴ることは今までと同じようにはできなくなるだろうけれど、自分自身の自死だけは免れられる。
私は実は子どもの頃から死刑に反対していた。
平野啓一郎が『死刑について』という本を書いている。
私自身人に接するうえで例えば人を物理的に傷つけるといったことに対してはブレーキが効いている人だったから言っても単なるエゴの露呈ではないと思われるのだが、私は「残酷なもの」一般に反対している。
なので、「残酷」を身体の上に課すこと自体も反対している。
私はその意味で日本という国に対してまだ啓いていくべきところはあると思っている。
平野啓一郎の『死刑について』は良い本であるので、読みたい人は読んでいただけたらと。

https://www.iwanami.co.jp/book/b606544.html

『死刑について』という本を紹介したが、「残酷」なものを愛する人はぜひ自分以外の文章を読んでいただきたい。
私はそのような考えではないので。

それでは、今日はこのところで。
連載とは違う内容になりましたが、連載についてもどこかで考えています。文体については変えるかもしれません。

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