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記憶と忘却、想起と想像  ロマ、ウクライナ戦争の見えざる犠牲者

愛楽園で行われている、小原一真写真展、「記憶と忘却、想起と想像 ロマ、ウクライナ戦争の見えざる犠牲者」を見てきた。

その帰りの車の中では、endrlessloveがかかっていた。

この展示、ウクライナ戦争の戦場がみれると思って行ったのだが、全く違っていた。戦争の見えない面に光をあてる展示でした。

タイトルある「ロマ」とは?


この文からロマ=ジプシーでいいのかな。しかもジプシーが差別的な言葉として使われなくなってきている。まず思ったのが、好きなミュージシャン、ジプシーキングスはそのままの名前を使えているかと、取るに足らないことですが、一番身近な感想。
人は自分の経験の範囲、それよりも生活の範囲で物事を考える傾向がある。俺のジプシーキングスもそこからきているが、それだけでは測れないこともある。それが、ロマの現状である。
それは、決して遠い世界の話ではない。一階にある愛楽園の歴史資料を見ることで、それを知ることになる。
残念ながら私たちの生きている社会は差別を内包している。差別はない方がいい事は社会の共通の認識として持っているとは思うが、残念ながら存在している、矛盾した状況にある。
差別は、差別している者が自らの行動が差別になっていることに気づいていない事が多い。だから、差別があることを知るのが第一歩だと思う。
だからこそ、小原さんの展示が愛楽園で行われていることに大きな意味がある。種類は違えど、共通して感じるものがあった。

写真の話をしよう。写真はロマの人々のポートレートと現状の写真で構成されている。壁だけでなく、フロアに立てられているパネルにも写真が展示されている。これは、見えているようで見えない世界。見えないところにロマの人々の現状があることを表現しているインスタレーションだと思うと同時に、そのパネルを覗かなければロマの事を知ることができない。

写真を見ていると、外国の風景と人々としかわからなかった。柱の、写真がアウシュビッツの跡地である事、子供たちがいるところが収容所である事、写っている人が無国籍である事。それは、キャプション、説明を読まなければわからない。
逆にそれが恐ろしい
写真に写っている風景は何気なく見れるような世界であるが、その見えている世界の裏側に差別がある。差別は日常の世界、光景に隠れている。
写真に、その現実も同時に見せられている気がした。

帰りの車の中で最初に聴いた曲がEndlesL oveでした。ロマの人々にLOVEに満たされる時がくるのか、美しいメロディが少し虚しく聴こえた。

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