見出し画像

〔ショートホラー〕帰宅

この長い坂道を登り切れば、私の家が見える。坂を半分ほど下ったところにある、白い塀のこじんまりとした我が家。今日は疲れたから、早く帰って休みたい。夜風は生ぬるく、不快指数はかなり高そうだ。

それにしても、私を見たときのあの男の顔ったら!思い出すだけで笑いがこみ上げるけれど、声を出すわけにはいかない。こんな時刻に女性の笑い声なんて、誰かに聞かれたら怖がられてしまう。私は出来るだけ静かに、今日のことを思い出してみる。

誰よりも私が好きだと言った男。私と結婚するためにお金が必要だと、涙ながらに打ち明けた男。そしてある日突然消えた男。信じた私もバカだったけれど、泣き寝入りなんてしたくなかった。だから死に物狂いで捜し出してみたら、奧さんも子どももいるなんて!私が全てを捧げた男は、正真正銘のクズだったのだ。目の前が真っ暗になった。

数日後。
「パパ、行ってらっしゃい」
見送る奧さんと子どもの前で、男はまるで善人のような顔をして手を振っていた。家族が背を向けるのを待って、私は背後から男に近付き、思い切り抱きついて言った。
「ひ・さ・し・ぶ・り。会いたかったわ」
耳元で囁くと、目を見開いた男が私を振り返った。私はやっと会えた嬉しさに、満面の笑みで続けた。
「ね、結婚式はいつにする?」
「う、うわあぁぁ!」
男は真っ青な顔で私を振りほどき、後ずさった。その時、道路に落ちていた砂利を踏んで派手に転び、アスファルトで頭を打った。男の悲鳴に気付いた奧さんが子どもを置いて駆けつけ、見ていた人たちが口々に「救急車!」と叫ぶ。辺りが騒然とするのを見届け、私はその場を離れたのだった。

こうして今日、やっと思いを遂げたのに、何故か段々と記憶が曖昧になっていく。ほんのちょっと、頑張りすぎたのかも知れない。足もとが覚束なくなった頃、やっと家に着いた。小さな墓地の小さな墓石。私は今の名前、戒名を確認し、そっと中に入った。やはりひどく疲れていたようだ。とてもとても眠い。

そう…これでやっと、眠れる。


夏なので、ちょっと涼しくなれそうなストーリーを考えました。が、もっと涼しく出来たかも💦
読んで下さった方、有難うございました。


この記事が参加している募集

私の作品紹介

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?