結局人それぞれだよねっていう人に対して思うところがある

人それぞれだよねって言われても困る。
そんなことを感じたことはないだろうか。私はある。そう言われてもこれからしようと思っていた話の全てがストップするし、何かを一緒に進めていこうと思っていたのにその気持ちを削がれてしまう。
そして私は相手のことをなにも考えようとしないバカなのではないかとさえ思ったこともある。
しかし、バカなのであれば主張に粗があるはずなのに、そこを指摘しようにも粗がない。
結局人それぞれだと言われればそうなのだ。

考えるとはなにか?
考えるためには私は雑に3つが必要であると考える。
材料としての単語、文章,
組み立て器具としての論理
目的としての文脈、前提条件
である。
ざっくり、考えるためには材料が必要で、それは言葉以外に他ならない。そして言葉を組み立てて形作らなければならない(論理)。最後になんのためにそれを言おうと思ったのかという文脈や相手の気持ちの確認が必要である。
ここでは単語と文章についてのみ触れようと思う。

単語とはなんだろうか。
ほとんどの人は単語はある一点を指すために必要なものだと思っているだろう。あれは犬で、こっちはえんぴつ、それは電柱のように。
しかし単語が点であるならば説明できないことがいくつかある。
ひとつに、犬という単語にも文脈などにより、まるで召使いのように従順だとか、うるさく吠えるだけのヤツみたいな意味が含まれることになる。
そしていくつかの点を内包するのが単語なのだとするならば、さらに次のような問題が生じる。
我々は言葉を覚える時に、特徴などを抑えてこれは犬でこれは犬じゃないという判断を下している。
そうすると、犬という単語を抑えるためにまた新たな単語が必要になり、犬という単語を使えるようにするまでに途方もない時間が必要になってしまう。
しかし、現実は赤ちゃんの言語習得は驚く程に早く、そして正確である。
つまり、単語を覚えるために時間を必要としていないと言える。
そこで私は、単語とは点のことではなく、モヤのかかった領域ではないかと考えた。

モヤのかかった領域とはどういうことか。
単語はいくつかの意味を指し示すことは多々あり、その中で論理的な組み立てによる区別は為されていないと考えるのが自然である。
例えば椅子は机ではないが、地べたに座って椅子を机代わりに用いたことは誰しもあると思う。そんな時も椅子は椅子であり、用途として椅子ではなくてもそれは椅子だと我々は思っている。
逆に机に座ったら怒られるし、そこでちょうど座りやすい高さであるから座ったとかそういうことを言うとより一層怒られるだろう。
つまり机を指し示すのを論理的に説明するためには論理的に無限の可能性を示唆しなければいけないことになるということだ。
どういうことかと言うと、机に座っていてもそれは机であるとか、半分に割っても机であるかどうかとか、机を作っている途中は机であるかとかそういった言及はことばの習得には一切必要ないということである。

文章とはなんだろうか。
文章とはざっくり言えば文法と言うルールの元で並べられた単語の集合のことだ。
それでは文章を作るとはどういうことだろうか。
多くの人はさっき述べたように単語は点であると思っているから、点同士を繋げて線にすることだとか、点の集まりである領域を示すことだとか思っていただろう。
例えば私は野球選手だと言えば私と野球選手を線で結んだと言ったような感じだ。
しかし、先程言ったように単語を人間は根源的に点だと認識してはいない。モヤのかかった領域であると主張した。
それでは私は野球選手であるというのはどういう構造なのだろうか。
野球選手と言う言葉はたくさん示すことができる。例えばプロとして職業でやっているとか野球が上手な人間だとかもっと言えば人として礼儀正しく謙虚でなくてはいけないという文脈で野球選手としての心構えなんて言われることもあるだろう。
そして私は野球選手である。という文章はつまるところ、野球選手という集合の中で大谷翔平とか山本由伸とかを示しているのではなく、職業としてやっていますよ。と限定しているのである
野球選手という枠組みの中で私は存在している。という意味であると解釈できる。
つまり野球選手という大きい集合の中に私という小さい集合が存在してますよと言える。
つまり、文章とは領域を絞って点を作り出す営みであると言えるだろう。

結局人それぞれだよねという文章に戻ろう。
これは領域を絞っていく営みであると言えるだろうか。そうではないだろう。モヤをそのままにしているのではないだろうか。理解したつもりになって領域を絞ることをサボっているではないだろうか。
つまり結局人それぞれだよねという主張は主張としての意味を為さないと言える。
数学で連立方程式を解いたことはあると思うがその時に0=0になった経験はないだろうか。
恒等式を代入したら方程式は解くことができない。それと似てはいないだろうか。
結婚願望がどうとか友達関係がどうとかいう問いになんの視点の変化も加えていないものを代入しているから0=0になっていると言えるのではないか。
正しい操作をしても答えが出ないのは本当に答えがないからだけなのか今1度考えて欲しい。

最後に結局人それぞれだよねに似ていると個人的に思っている主張を紹介して終わりにしよう。
なんか哲学みたいだね
無知の知ってやつね
人生は答えが見つかるばかりじゃないよね
環境が全てだよ
努力が全てだよ

皆さんはどう思いますか?

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