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発見と能動性をめぐって

 こんにちは。

 「心の平穏」に入ってから、このnoteを毎週投稿し始めた。多い時は毎日書いていたように思う。その投稿も今日で21週目となるわけだが、これは心の平穏を自覚してから21週間が経った、と言い換えてもよろしい。

 この21週間は、それまで暗かった自分が明るくなり、様々なことにチャレンジしてだいぶん成長できた。散歩も日課になり、体力作りにも困らなくなった。そもそも21週間も心が平穏なまま過ごせたのは、物事に必要以上にこだわらなくなったからである。

 心を不穏にさせるこだわりを捨て、生きやすくなった。しかし、一つだけ捨てられなかったこだわりがある。今日はそのことについてである。

 私が捨てられないこだわりとは、能動的に生きることへのこだわりである。


雲感と幸福逓減則

 小学生のころから、ある不思議な感覚を自分の人生に対して抱いていた。

 新緑の木々に青い空。遠くでさえずる鳥。私の地元は、こうしたものが目に飛び込んでくる、自然豊かな場所である。しかし、大きくなるにつれてこれらの色が褪せるような感覚に襲われていた。見ているそれらは同じなのに、鮮やかさがない。

 中学に入ってからは、この色あせが一気に加速した。頭の中がテストやら先生やらで埋め尽くされ、見ている景色を味わえないのである。

 この「景色の鮮やかさに靄(もや)がかかる感覚」を私はある時から「雲感」(くもかん)と呼んで恐れ始めた。なぜ自分の眼前はどんどんモノクロのようになっていくのか、それは子どものころから謎であった。


雲によって青空が見えないように、雲感によって鮮やかさが見えない。

 そしてそれと同時に、自分の中から幸せが消えていく感覚にも襲われた。子どものころは幸せでいっぱいの自分だったのに、なぜか大きくなると自分も周りも無味乾燥になり、幸せを感じにくくなっていく。

 まるで幸せが年とともに減っていくようだ。これを私は、地理の授業で習った「気温逓減率」という概念になぞって「幸福逓減則」(こうふくていげんそく)と名付けた。

夢体験

 しかしそのような私も、数年に一度、その鮮やかさを取り戻す時があった。中学入学以後だと、それは

・2018年7~8月
・2016年7~8月
・2015年10~11月
・2015年6~8月
・2013年4~7月

がそうだった。このような時、普段は思いも依らないような巧妙な思考が湧きあがり、活動的になり、清々しくなり、楽しくなる。まるで子どものころに戻ったような感覚になる。このようなひと時を私は「夢体験」と呼んでいる。

 夢体験のときは、不思議と雲感がない。眼前に色がつき、鮮やかな世界が見える。私は今まで、夢体験が来るたびにこの鮮やかな世界を目に焼き付け、その繰り返しで今までこの鮮やかさを忘れずにきた。

なぜ「幸福逓減」なのか

 しかしやはり、幸せの感覚は年々減っていっているような気がする。

 まだ様々なことにこだわっており、精神不安定だったころの私は、もしかすると鮮やかさや幸せが減っていくこの流れに精一杯反抗していたのかもしれない。そう思うと、今これだけ落ち着いている自分よりも、情の波が激しく立っていた自分のほうが、まだ救いがあったのではないか、ともおもえてくる。

 そう考えると、人生というものは「鮮やかで精神不安定」か「穏やかでつまらない」かのいずれかにも見えてきてしまう。鮮やかさを穏やかさと併せ持つことはできぬものなのだろうか?

 そこで鮮やかだったころはなぜ鮮やかだったのか、少し考えてみる。

 鮮やかだったころは、毎日何かしらの発見があった。新しい蝶と出会った発見、初めて豆電球に電池で明かりを点した発見、運動方程式F=maの意味が分かるようになった発見。どうやらこの発見というのは、世界が鮮やかに見えるかどうかにかかわっているらしい。

 また、鮮やかだったころは能動的に自分の頭を使っていた。中学1年時、マグニチュードの計算法に興味を持った私は、対数を独学し、それを四則演算で計算する簡便な方法をひらめいた。この発見をしたためた、当時の拙いノートは今見ても「あの時の自分がよく考えたなー!」と感動する。

 そして上の「夢体験年表」を見返してみても、どの夢体験にも何かしらの「発見」と「能動性」があった。

・2018年7~8月・・・「知能の種類」の発見、ある漫画の完成
・2016年7~8月・・・遠近法計算、レンズの計算、モアレの計算
・2015年10~11月・・・蜃気楼計算への没頭、「科学の甲子園」出場
・2015年6~8月・・・火山への没頭、漫画の量産
・2013年4~7月・・・「ねこっち」の誕生、数学に目覚める

 そこで「発見」と「能動性」こそが、鮮やかな生活の必須条件であると考えてみよう。

 そういえば大学1年時、私は期末試験やレポートで得られる学びに何の意味があるのかと悩み、その不安定がたたって休学した。たしかに、扱えるようになることは大学生になり増えた。しかし、レポートや試験の忙しさは、扱えるようになったことを自分のものにする時間をくれない。すぐに成績がつき、点数に反映され、ある時は「自分はやれていない」という観念に、またある時は「自分は理解している」という錯覚に陥る。今では対数よりも「高度」な球面調和関数や分配関数、ハミルトニアンとかルジャンドル変換とか色々覚えたが、どれも対数を独学して計算法を与えた中1時の理解には遠く及ばない。

 最近は「思考実験」というものができるようになってきた。物理の世界に徐々に慣れ、その思考法がだんだんと分かってきたのだろう。しかしこれも、自分で獲得した感覚はない。あくまでも「慣れ」の結果なのであり、大学の授業にグイグイと引っ張られる中で受動的に身に着けたスキルなのだ。

 そういえば大学に入ってから夢体験がほとんど来なくなった。上の「夢体験年表」を見ても、大学入学時である2019年以降のものはない。

 そうすると幸福逓減というのは、生活の中から「発見」や「能動性」が相対的に減っていくことを幸せの言葉で言い換えたに過ぎないのではないか、と思えてくる。つまり、私にとっての幸せとは、「発見と能動性」、これに尽きるのだ。

 発見と能動性、これを復古させれば、幸福逓減則を打ち破れることだろう。

穏やかさとの両立

 では、発見と能動性をいかにして穏やかさと両立させようか。少なくとも、今までの私のままではそれは難しい。

 今までの私も、この「発見と能動性」を自分なりに持とうとしてきた。しかしその結果が、学ぶことの意味を見失って繰り返した休学であった。教育という大きなシステムの前では、発見やそのもとになる能動性の芽は摘まれるばかりで、私にその主導権を持たせてくれない。だから何度も葛藤して死のうとした過去があった。

 そうかといって、以前のように教育や社会を敵視して、死のうとする気はもうない。あのようなグロテスクな葛藤にこだわると、かえって発見や能動性の芽は削がれてしまう。

 そこで私は次のようにする。まず今の私が「発見と能動性」のビギナーであることを自覚するのだ。今までは、これは認めたくなかった事実である。なぜならば、私は命に代えてでも発見と能動性の楽しさを守ろうとしてきた当事者だからである。

 子どものころに持っていた「発見と能動性」が今は小さくなっていることを認めたくないが、これを認めなければ前には進めない。

 そして次にやることは、「発見と能動性」のリハビリである。少なくとも小学3年時のころの私は、能動性の芽を持っていた。これは当時の私が「保健室登校」ならぬ「パソコン室登校」をしていたことからわかる。詳しくは別記事に譲るが、私は学校不適応を起こし、パソコン室に登校していた過去がある。当時の私はパソコン室の備品を盗み、パソコン室に布団を敷いて寝るなどやりたい放題やっていた。こんなことはある種の能動性がないとできないだろう。

 上記のパソコン室登校が2008年のこと、今が2024年だから、当時から16年たっている。失われかけている発見と能動性の芽を成長させるには、少なくとも同じくらいの時間を見込んだほうが良いかもしれない。発見と能動性の芽を子どものころに失うのは簡単だが、その重要性に気づいてもう一度育てようと思うのは大変である

 このリハビリは今後どうなっていくかは分からないが、少なくとも気長に待ってみることが肝要であるように思える。というのも、学校の成績のように頻回に自分を評価すると、出てくるものも出てこなくなる。それこそ、「自分の血肉にする時間をくれない」という先ほどの問題と同じことになる。だから、どんな自分も大切に見守るつもりで、発見と能動性の芽を当面は見守っていこうと思う。

 同時にできるリハビリのメニューとしては、学問を楽しむことが挙げられよう。今の私の場合、発見と能動性は学問にしばしば現れる。例えば私は自然現象の探究が趣味なのだが、これが充実し始めると生活が楽しくなることは多い。仮にその時何かに困っていても、自然現象の探究が充実すると時間を忘れて楽しくなることは何度も経験している。

 まずは今が春休みであることもあり、自由に時間を使えるので、手元にある演習問題『大学演習 熱学・統計力学 [修訂版]』(久保亮五 著、裳華房)を1日2時間と時間を決めて取り組むことをしてみようと思う。以前別の記事で「熱力学にはまっています」と書いたが、その波は最近も続いており、熱力学が楽しくなってきた。今は熱力学をやるのに絶好の機会だと思えるから、当面はこの参考書を解いてみようと思う。

 穏やかさは、「時間を決める」であったり「毎日続ける」と言ったりすることと親和性が高い。一方、鮮やかさは「熱中する」とか「発見する」と言ったようなことと相性が良い。両方併せ持つには、

自分が今一番高められることを、毎日時間を決めて淡々とやること

を続けることが一番良いように思える。それを叶えてくれるのが、この「リハビリ」というやり方のように思う。

最後に

 今日は「なぜ幸せは減っていくのか?」という問いから始めて、随分と長い記事を書いてしまった。また、自分の書きやすさを優先したら、いつもとは違う「である調」のやや古風な文体になってしまった。もし普段の「ですます調」の私を期待されていた読者の方がいらっしゃれば、申し訳ない。

 しかし、私としてはこちらの文体のほうが、言いたいことを言えるような感覚があるので、今後、もしかするとまたこのような文体の記事を書いてしまうやもしれない。

 リハビリは、より長く続けるためにも無理をしないことに今まで通り気を付けられればと思う。熱力学も、無理をしないからもう1か月以上続けて勉強できている。

 それでは、また別の記事でお会いしましょう。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

  ねこっち

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