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湯煙こぼれ話

地面に這いつくばりながら、マンホールの上はもう絶対に歩かないと誓う。

昨夜降った雪を避けながら歩いていたら、マンホールの上で見事に転んだ。下半身をしたたかに打ち付け、しばらく動けなかった。骨には異常なさそうだが、きっと濃いアザになってるはずだ。

椅子に座れるだろうか。職場では座っている時間が長い。アザが圧迫されて痛いかも。休もうか。でも軽い怪我で急に休むわけには……。

仕事を休むかどうか葛藤しながら、よろよろと立ち上がったところで、視界に雪がちらついた。ああ、もう休もう。一気に心が決まり、上司に休みの連絡を入れた。


動かしにくい足を動かしながら、通勤、通学する人々とは逆方向に進んでいく。電車を二つ乗り継いで、家の最寄りの駅までたどり着いた。また少し歩かなければ。駅前で痛む腰をさすりながら、休憩する。深呼吸すると、眠気がやってきた。

昨夜、新しいパソコンが届いた。興奮して設定したり操作感を確かめたりして、夜更かししてしまったのだ。マンホールよ、寝不足でぼんやりしていた私も悪かった。心の中でマンホールと和解していると、渋い看板が目についた。

「銭湯……雪島の湯……」口に出して読むと、温かい湯船がたまらなく恋しくなる。看板に誘われるように、足がゆっくりと動いた。



待ち望んでいた、ちょっと熱めのお湯。ゆっくり浸かると、足先や手足がビリビリする。すぐに全身に血が巡って、腰や太ももの痛みが和らいでいく。はぁ~と無意識に声が出た。

「お兄さん、いいお湯でしょ」

後ろから急に話しかけられて、驚く。そういえば、おじいさんが先に入っていた。お湯の気持ちよさに忘れてしまっていた。

「は、はい。すみません、大きな声出して」

「いいんだよ。大きなお風呂は気持ちいい。私もさっき久しぶりに入ってね、あ~って言っちゃった」

「ははは、声出ちゃいますよね」

気の合いそうなおじいさんと貸し切り状態。穏やかな時間が流れる。ああ、癒される。銭湯って、いいもんなんだな。近所に銭湯があるらしい、とは知っていたものの、なんとなく足が向かなかった。もったいないことをしていた。これからは時々、来よう。

「ところでお兄さん、すごいアザがあったね。どうしたの?」

「ああ、出勤途中に転んでしまって。マンホールに足を取られました。寝不足だったのも悪かったんですけどね」

「わぁ。痛かったろう?ずっと生身の人間やってると、怪我や病気が辛いよなぁ」

おじいさんの独特な言い回しに引っかかりながらも、話を続ける。

「八年くらい使ってたパソコンが、ついに壊れてしまって。昨日新しいパソコンが届いたので、興奮して夜更かししちゃいました。駄目ですね、ちゃんと寝ないと」

にこやかだったおじいさんが急に真顔になった。

「……ええと、俺、変なこと言ってしまいましたか」

「ああ、ごめんよ。気にしないで。そうかそうか、お兄さんは物持ちがいいんだねぇ」

「本当は四年くらいで買い換えたほうがいいんですがね。よく使う物には愛着が沸いちゃって。古いパソコンはもう壊れてて電源も入らないけど、しばらく捨てられなさそうです」

「ふふふ、そのパソコンはきっと付喪神つくもがみになったんだろうねぇ」

「つくも、がみ?」

「人間が大事に使い込んだ道具には、精霊が宿るんだ。その精霊が付喪神になるっていう伝説があるんだよ。その付喪神はね、節分の日にだけ依り代の道具から抜け出して、自由を謳歌おうかするらしいよ」

「へぇ……付喪神かぁ……あ、節分って今日だ!」

おじいさんはにやっと笑った。俺のパソコンが付喪神になったら、どんな姿なのだろう。やっと自由になった、と今頃はしゃいでいるのだろうか。

「おじいさんは、今日はお休みで?」

「うん、昨日やっと長いお勤めが終わってね。自分へのご褒美に、ずっと憧れてた銭湯に来てみたのさ」

「そうなんですか!お疲れ様でした。どんなお仕事を?」

「とある人の執事、みたいなものかな。人使いの荒い主人だったけど、退屈とは無縁の毎日だったよ。楽しかったなぁ。丁寧にメンテナンスしてもらえたおかげで、人の姿に化けられる付喪神になれた」

おじいさんの輪郭が湯煙でぼやける。なんだか急に湯気が増えたような。頭もぼんやりする。

「まさか君と銭湯に入れるなんて。長年の夢が叶った。今日は本当に特別な節分だ」

おじいさんの姿が湯気で隠れてしまった。

「君のパソコンになれて良かった。大事にしてくれて、ありがとう」

湯気を両手で払ってみるが、誰もいない。見回してみるが、浴場のどこにもおじいさんの姿はなかった。急いで脱衣場へと走り、番頭のおじさんにおじいさんのことを尋ねてみた。

「え、さっきからずっとお客さんは兄ちゃん一人だけだったよ?大丈夫かい?湯中ゆあたりしちゃったのか?」

呆然としながら、銭湯の壁に描かれた富士山を眺める。家に帰ったら、あのパソコンに声をかけてみよう。本当にお疲れ様、と。



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